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横山光輝 三国志 玉璽の行くえ 6

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横山光輝 三国志 玉璽の行くえ 6

曹操 九死に一生
孫堅 焼け野原の洛陽の井戸から玉璽を拾う
追討軍解散
袁紹 冀州を奪うため計る
公孫瓚 韓馥
趙雲の登場

董卓との戦いに敗れた曹操。
しかしながらこの戦に負けたということが後々、曹操軍の結束や軍備を整える上で大きな出来事になった。
そして董卓追討軍は解散。
そして袁紹が冀州を獲り、公孫瓚と対立構造が出来上がっていく。

目次

キーワード 冀州 

冀州(きしゅう)は、中国の行政区分の一つ。現在、山西・遼寧・河北・北京・天津・フフホト(呼和浩特)・ウランチャブ(烏蘭察布)等七つの省市に分属している。

後漢末には軍閥の袁紹が鄴に拠って冀州を支配した。袁紹の死後、曹操は彼の子の袁譚・袁尚を破り、冀州を支配した。曹操は「冀州の戸籍を調べたところ、30万人の軍勢を手に入れられそうだ。従って、冀州は大州と言えるだろう」と言っているように、この頃の冀州は、中国北部随一の豊かな州であった。魏晋では信都県を州治とした(ただし鄴は魏の五都の一とされ、実質的に冀州の最重要拠点となった)。

冀州wikiより

ほうほう
北京も入っているんですね。
鄴については官渡の戦いの時、この三国志でも説明されていた。
また、これもどこかで触れていたが、曹操によって銅雀台が建てられたのもこの鄴だった。

銅雀台(銅雀臺、どうじゃくだい)は、魏の太祖、曹操が魏王に昇爵した時に鄴(ぎょう)(現在の河北省邯鄲市臨漳県三台村)に造営した宮殿。210年の冬に造営された。現在は遺跡がある。

まあ、魏の別荘的な宮殿とでもいうのか、赤壁の戦いの戦いで大敗した後でもこれだけの建物が建てられたというのは、財力があった証拠、曹操の治世によるところがおおきのではないだろうか。
いずれにせよ、この冀州を治めるというのは、この群雄割拠の状況において相当有利に働くことが伺える。

ピックアップ人物伝 公孫瓚

このとき、劉備を認めて悪いイメージはない印象なのだが、実際にはどうだったのだろうか。

北方の勇将 
涿郡の盧植の下で経書・兵学を学んだ。このときの学友に劉備と高誘(中国語版)がいる(蜀志「先主伝」など)。

公孫瓚は孝廉に推挙されて郎となり、遼東属国長史となった。数十騎の小勢を率いて城外に出て辺境の砦を巡察したとき、数百騎を率いた鮮卑族の一団を見かけた。これを自ら突撃して半数の手勢を失うも撃退した。鮮卑はこの後、国境を侵すことは稀になったという。公孫瓚は涿県の令となった。

公孫瓚wikiより

易京の戦い
易京城は10年分の兵糧を蓄え、幾層もの城壁を備える堅城であった。公孫瓚は「兵法には百の城楼は攻撃しないとあるが、現在自分の城楼は千重にもなっている。(農事に励んで蓄えた)この穀物を食い尽くしている間に天下の事態の行方を知ることが出来よう」と言ったという。1年余りの対峙の末、食糧が尽きて撤退しようとする麴義と劉和の軍に公孫瓚は追撃しこれを大破した。その後も袁紹の軍を防ぎ続けた。

袁紹は公孫瓚に降伏を勧告したが、公孫瓚は返事を書かずに軍備を増強し、側近の関靖に対し自分の力を誇示したという(『漢晋春秋』[13])。公孫瓚やその諸将はそれぞれが高い楼閣を築き、そこに居住したが、公孫瓚は側近を遠ざけ、下女や側室に囲まれて暮らし、公文書も下から吊り上げさせたという(『英雄記』)。

あるとき、公孫瓚の別将で敵軍に包囲された者が居たが、公孫瓚は救援軍を送らなかった。曰く「1人を救援すれば、後の大将達が救援を当てにして全力で戦わない様になってしまう。今、救援しない(で見殺しにする)ことで後の大将達は肝に銘じ自ら励む様になる筈だ」とのこと。そのため、袁紹が北に進軍を開始した時、国境線上に在った別営では、全力で護っても自力では護りきれない上に救援軍も決して遣って来ないことを知っていたから、自軍の指揮官を殺害して自壊するか袁紹軍にあっさり撃破されるかで、袁紹軍は真っ直ぐに易京の門に到達し得たのである(『英雄記』)。

その後、袁紹が大軍を率いて攻めてくると、公孫瓚は最初は自身が突騎兵を率いて出撃し包囲網を突破して城外の張燕・公孫続と合流して袁紹軍を背後を突く計画を練るが、関靖に止められた。公孫瓚は結局城内から公孫続に密使を送り、内外から呼応する作戦を立てたが、密使が袁紹の斥候に捕らえられて計画が漏れ、出撃するも伏兵により惨敗を喫した[14]。袁紹は地下道を掘って易京を攻め、公孫瓚らが居住する楼閣を突き崩した(『英雄記』)。最期に公孫瓚は居城に火を放ち妻や子らを刺し殺し、自らも自害して果てた。建安4年(199年)3月のことだった[15]。

袁紹は公孫瓚やそれに殉じた関靖らの首を許都に送ったという(『漢晋春秋』)。

公孫瓚wikiより

小説『三国志演義』では、反董卓連合の諸侯の1人として登場し、旧知の劉備をいろいろと援助する恩人として描かれている。呂布と一騎討ちに及んで敗れたり、袁紹配下の武将の文醜や麴義に自慢の白馬義従を破られ逃げ回るなど窮地に陥ることが多いが、そのたびに劉備・関羽・張飛の三兄弟や趙雲に救われる。曹操と劉備が英雄を論じた宴席の最中、河北の偵察に赴いた満寵が公孫瓚の敗死を知らせてきたため、劉備は公孫瓚の仇を討つという名目で、袁紹の弟の袁術を徐州で待ち受けることを願い出、曹操の許可を得て再び群雄として自立することになる。

公孫瓚wikiより

この引用は少々長くなったが、またわかりづらさも垣間見れる。この後の横山光輝三国志においては余計な描写は描かず、わかりやすくしているのが伺える。
にしても三国志を彩る、重要な人物であるのは間違いないところ。

トピック 磐河の戦い

袁術とその部将の孫堅は豫州を巡り袁紹と対立していた。あるとき、袁紹の部将の周昂が陽城の孫堅の陣地を奪取した報復として、袁術の元に出向いていた公孫越は袁術の指示で孫堅と共に周昂を攻撃するが勝てず、公孫越は戦死してしまう(陽城の戦い)。公孫瓚はこの知らせを聞き激怒し磐河まで出兵したという。

公孫瓚wikiより

Wikipediaには詳細はなかったのだが、ここでなぜトピックとして扱ったのかというと、この三国志の光、趙雲の輝かしい登場がある。

横山光輝三国志の趙雲は少々無骨なお侍さんという容姿である。
他のゲームでの趙雲は西洋の甲冑をまとっているような精巧な鎧と端正な顔立ちのキャラ設定が多い。

ちなみに今回ピックアップ人物伝で紹介した公孫瓚もイケメン設定されていることが多い。

機会があればイケメン三国志トピックでも企画したいものです。

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この記事を書いた人

東京都下在住のフリーランス。アコギ初心者練習に余念のない元ベーシストバンドマン。ピアノの音すき。つまりは音楽が好きです。
本業の仕事では、ほぼ毎日運転しつつも十年以上無事故無違反のガチゴールド安全運転者。
禁煙歴2年になります。
当ブログの『さいともブログ』ではイヤホンを中心としたガジェット、はたまた横山光輝「三国志」についてのブログとなっております。

ahamo

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