三国志 横山光輝 53 陳倉の戦い

こんにちわ!さいともと申します!
前回はトピックで取り上げたのですが、また改めて荀彧の凄さに思いを馳せた記事となり、すっかりわたしは荀彧推しとなって物語を描ける能力があるなら、彼を主人公に描きたい!そんな思いをした前回の記事でした!


また街亭の戦いはこの横山三国志、そして演義と正史とでは後半戦、魏の動きに違いがありました!
それと曹真は孔明の引き立て役ではなく立派な将軍さんでした!



被害者の方ですね
今回の53巻は呉にも動きがあり、魏呉蜀とも生き残るため、そして覇権を握るため必死に戦う姿が描かれます。
この基本戦略は孔明が作り上げたもの!



やっぱり孔明はすごいですね!
今回の記事では二つの大きな戦、魏呉による石亭の戦いと、孔明による第2次北伐、陳倉の戦いを取り上げて、それに関わった中心人物曹休と、この巻で第一次北伐、街亭の戦いで敗れ処刑された馬謖について触れていきます!
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※この記事の主旨について
この横山光輝『三国志』記事はこの漫画(演義)とwikiからの正史を見合わせて思いを馳せて楽しむのが主旨です!
歴史検証や論文的なものではございませんのでご了承ください。
横山三国志や演義での孔明はこんな描かれ方でも、正史ではこんなだった!
的なギャップを楽しめればという内容です。



よろしくお願いします!
あらすじ


蜀の敗戦により、孔明は軍法会議を開き、馬謖を処断して法を遵守する。
この敗戦の反省により、孔明はいっそう兵の強化に努めることになる。
一方、呉にも動きがある。
周魴の寝返り策により、石亭の戦いがはじまり、総大将の曹休が亡くなる。
呉による大勝利により再び孔明の蜀が動き出し、第二次北伐陳倉の戦いとなる。
猛将王双の活躍に手をこまねいていたが、姜維の進言により策をめぐらす。


キーワード 石亭の戦い


コーエーテクモゲームス 三國志14 公式より
呉の謀略から始まる戦い
呉に対する揚州方面の指揮官は曹休となるがこの戦いの前に簡単に曹休についてふれる。
曹休
曹操が挙兵したときに赴き、
「この子は我が家の千里の駒なり」と褒めた。
時は経ち、218年の漢中攻防戦に曹洪の軍事に参加。武都の戦いでは呉蘭・雷銅らを大破、張飛・馬超らを敗走する活躍。
曹丕の代には呉に備えていた夏侯惇が死去し、その後任となる。
夷陵の戦い直後に呉と争うが敵味方とも犠牲者を多く出す。
揚州勅使などになるが母を亡くし憔悴して曹丕に心配される。
曹仁・曹休・曹真・夏侯尚と合わせて3方向より呉を攻めるが大敗、またその後揚州牧となり呉の備えを任される。
曹叡の代でも呉方面の守備を任されて帰順してきた将を含めて活躍して大司馬に昇進。


そして今回のキーワード、石亭の戦い
先の呉の将の帰順もあったのか、呉の周魴の迫真の投降を信じた曹休は司馬懿や賈逵を別働隊として15万の兵をもって呉への侵攻。
これに対してまんまと誘い込んだ呉の孫権は陸遜を大都督として迎撃。
進軍して安徽省まできた曹休はこの計略に気づくが、大軍ということとこのままでは恥にしかならないとして進軍。
賈逵は曹休が誘き出されたと察して合流よりも石亭へ向かう。
陸遜軍の待ち伏せや朱桓と全琮による挟撃奇襲によって曹休軍は壊滅に近い打撃を被る。
また司馬懿も江陵で足止め状態となり撤退。
魏は大損害を受けて大敗。
余話としては曹休は賈逵に助けられ、命の恩人となるのだが、以前から仲が悪く曹休は救援が遅いと叱責。
しかしこの敗戦のショックからか背中に腫れ物を発して死去。
賈逵も同時期に病死する。


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ピックアップ人物伝 馬謖


頭が良くてもプライド高くてナルシスト!?
そんな印象の馬謖なのですが、はたして正史ではどんな評価だったのか見ていきます。
劉備が荊州を支配すると馬良とともに従事に取り立てられる。
劉備の益州平定後は綿竹・成都の県令などを歴任。
諸葛亮に高く評価されるが劉備には信用されず、
「馬謖は口先だけの男だから、くれぐれも重要な仕事を任せてはならない」
と孔明に諭す。
224年の春、雍闓や孟獲などの反乱謀反に対して
「城を攻めるは下策、心を攻めるが上策」
として孔明に助言。
これにより南征の成功に寄与する。
228年 第一次北伐において、周囲の意見を聞くことなく馬謖を先鋒に抜擢。街亭の戦いにおいて大敗。
戦後の軍法会議で敗戦の責任により死罪を命ぜられる。



罪を恐れてか逃亡したことによる処刑説もあるんですね!
これがのちの「泣いて馬謖を斬る」の故事となる。
演義では描き方が少々かわり、正史では馬謖に対しての涙であったが、演義では劉備の言葉を聞き入られなかった自分の不明さに泣いたとされている。



馬謖についての記述が少なく、もっと人間味を見たかった気もします!
トピック この戦いの英雄は郝昭!
第二次北伐 陳倉の戦い


先の石亭の戦いによる呉の大勝、そして魏の大敗に乗じる形で孔明は再度、北伐を開始。
簡単な内容としては陳倉城を奪うために孔明が指揮をとったが、第一次北伐の戦後に曹真が陳倉城を攻める予測から城を堅牢にしていたこともあり、郝昭・王生らの防衛により魏の勝利となる。
この戦いで横山三国志では見えないが、やはり曹真と魏の危機感が大きいこと。
先の石亭の戦いの大敗はまた魏を強くしている。
さらには孔明の蜀漢も第一次北伐から日が浅く、冬ということもあり持久戦としての戦い方を孔明はしていない。
曹真の予想通りの孔明の陳倉城攻撃で魏は対応できた。
張郃も援軍として参加するが、陳倉城の防衛力と蜀軍の兵糧があまりないことを予測して勝利できると曹叡に諭す。
曹真・張郃の戦略眼もさることながら、子の戦いには郝昭の武功があげられている。
孔明が多様な城攻めアイテムを作るも破壊される。
雲梯(梯子車)・衝車(破城槌)用いたが郝昭は火矢と石臼でこれを破壊した。次に井闌(攻城櫓)を使って城中に矢を射掛けさせた。これには城内に防御用の塀を作って防いだ。さらに地下に坑道を掘って城裏に出ようとと試みるも、郝昭は城から横穴を掘ってこれを妨害した。
陳倉の戦い wikiより


三国志 下巻 より



この辺りは正史でも一緒なんですね!
孔明の攻撃にことごとく勝利して現場において城を守った郝昭は大いに曹叡から評価されるも、すぐ病死してしまう。
郝昭





最後まで読んでいただきありがとうございました。


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