三国志 横山光輝 49巻 出師の表
はじめに

本の内容については漫画を読めばいいと思うので、ここでの記事は補足となる、人物や物事を取り上げて漫画を少しでも楽しく読めるようにするのが本記事の目的とします!
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あらすじ


何度となく戦ってきた孟獲
最後の相手、烏戈国 の兀突骨を孔明は徹底的に根絶やしにする。
何度となく戦ってきた孟獲は7度も捕まり、ようやく懲りて孔明に心服する。
その心服は孔明が都(成都)へ帰る行軍で長いことついてくる。
さらに饅頭の逸話
成都へ凱旋した孔明と蜀軍であったが、数ヶ月後に馬超が45歳の若さで病に倒れる。
さらに魏では皇帝曹丕が病に倒れ重体となったが、在位7年で40歳という年齢で崩御する。
2代目の皇帝に曹叡がなり、曹丕の時と同様司馬懿は驃騎大将軍として高い地位を得る。
しかし司馬懿は対蜀に備えるべく西涼へと向かう。
これに危機感を感じた孔明と馬謖は間者を送り司馬懿に野心ありとする。
この計略が功を奏し、司馬懿は官職をすべて剥奪されて郷里へ帰されることとなる。
孔明はここから北伐の決意をする。
その決意文が出師の表となる。


キーワード 出師の表


名文中の名文とされるが、ここでは前出師表にふれる。
後出師表は偽作か真作かはっきりした結論に至ってはいないようである。
出師表とは
出師とは軍隊を出すの意で表は公開される文。
出師 wikiより
師とは軍隊のこと。
建興5年(227年)孔明が主君の劉禅に奉った上奏文
自分を登用した劉備への恩義を述べて若き皇帝、劉禅を我が子のように諭し、この恩に報いる決意文となる。
陳寿の三国志本文にも引用のほか『文選』『文章軌範』などにも収められている。
孔明の真作と考えられている。
文選
『文選』(もんぜん)は、中国南北朝時代の南朝梁の蕭統(昭明太子)によって編纂された詩文集。全30巻[1]。春秋戦国時代から南朝梁までの文学者131名による賦・詩・文章800余りの作品を、37のジャンルに分類して収録する。隋唐以前を代表する文学作品の多くを網羅しており、中国古典文学の研究者にとって必読書とされる。収録作品のみならず、昭明太子自身による序文も六朝時代の文学史論として高く評価される。
文選 wikiより
文章軌範
『文章軌範』(ぶんしょうきはん)は、中国宋の謝枋得が編纂した、唐宋の「古文」の名作文章の選集文献で、その数は69である。
古文とは、六朝時代に流行した1句の字数を4字と6字に限定し、ほぼ全てが対句で構成された極端に装飾的な駢文に対して、唐の柳宗元・韓愈たちが提唱した文体である。簡潔で雄健な調子で、考えをそのまま表現した古代の文章を理想(故に規範)とする。
掲載されている文章は高級官吏登用の科挙に際し、科目作文の模範となるべきものを謝氏が選び出したものである。俗にいう受験参考書・模範文例集であり、今日の意味での名作集ではない。
続篇として明の儒者鄒守益(王陽明の門人)が編んだ『続文章軌範』がある。秦漢から同時代の明代までの名篇を選ぶ。
日本には室町時代末期に紹介され、特に江戸時代後期以降に和本が多く刷られ愛読された。
孔明が北伐出征に際して国に残す皇帝劉禅のために書いた。
文章軌範 wikiより
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この現代語訳がニコニコらしくて面白いのでぜひ!
ピックアップ人物伝 劉禅


簡単な劉禅の略歴
- 父の劉備の崩御により17歳で蜀漢帝国の皇帝につく。
- 一切の政務軍務は孔明らに任せて国を守る。
- そんな劉禅の蜀は約40年続くことになる。
- 234年(建興12年)孔明が五丈原にて陣没した後は白い喪服を着て3日間の追悼の意を表し、孔明の死を喜んだ臣下を怒りに任せて処断している。
- しかし劉禅自身の行為として後宮の人為増員や遊興や行幸したという記録ばかりのようで臣下に諌められている。
- 孔明の死後、蜀漢帝国は数々の権力闘争があっが、董允の死から劉禅はますます宦官の黄皓を寵愛し台頭。
- またここからも数々の権力闘争があるも、劉禅が何かをするといった動きが見えない。
- そして有能な人材は亡くなったり、失脚したりと衰えていき、魏の攻勢を受けて降伏。
- その後、幽州の安楽県で安楽公として封じられ余生を送る。65歳で死去する。
評価
『三国志』の撰者陳寿は、
「賢れた宰相に任せている間は理にそった君主となったが、宦官に惑わされて昏闇の後となった。白い糸は染められるままに何色にも変ずる」(「周りの人間が有能なら善く、悪かったら駄目になるような人間である」という主旨で、これは桓公 (斉)と同じである)、「諸葛亮が補佐した12年間は改元もせず、あれほど出兵しながらも、濫りに恩赦を行う事も無かった。なかなか出来ない事だ。しかし諸葛亮が没して後、そうしたやり方も崩れていった。優劣は歴然としている」
劉禅 wikiより
と評している。
なお、『晋書』「李密伝」で蜀の旧臣でもある李密は、
名臣を信じて成功し、奸臣を信じて失敗した事を例に出し、劉禅を「斉の桓公に次ぐ」
劉禅 wikiより
と述べている。
劉禅の印象
諸葛孔明 劉禅
上表(クリックすると拡大されます!)のように孔明と比べてしまうと凄まじすぎる能力差だし私自身も能無しのイメージしかなかったが、wikiを見て印象が少々変わった。
遊びが好き
政治に無関心
家臣に任せっきり
このイメージしかなかったが、これだけで彼が40年間も皇帝として君臨できる物なのだろうか?
もしかしてわざと能無しキャラやってた?



疑問に思ったので推理してみました!
自分の命を守る嗅覚が父親譲りである。
降伏後の司馬昭とのやりとりでうかがえる。
臣下を信頼して立ち振る舞える。
まず孔明という偉大な部下を無条件で信頼して任せている。
無駄な粛清をしない。



臣下がビビらずのびのびできた?
魏の皇帝、曹丕のように自ら権力闘争はせず、粛清などをしていない。自分自身を殺しても無駄な感じを臣下に出さしてる?!



わたしの簡単な印象なのでお聞き流し程度でお願いします。
トピック 曹丕の治世


あらすじでも述べさせていただきましたが、曹丕が在位7年で崩御しました。
しかしながら、曹丕の治世はこの後に対してもその前の父曹操や家臣たちが築き上げたことを大きく変えました。



どんな治世だったかもう一度見てみます。
関連トピック曹丕の性格の悪さ


蜀漢帝国では劉禅が2代目皇帝となりましたが、それに反発しての反乱が相次ぎました。
魏でもそのようで各地で反乱が勃発、鎮圧に失敗も多々あったようです。
さらに先代の曹操の能力ある人材を確保して重宝してきた政策とは真逆に一部の人間だけ信頼して他は親族だろうが処刑したり左遷するなどの処置が目立ちました。
曹操の時代は権力を拡大する目標が根底にあったかと思いますが、曹丕は拡大というより権力維持の方向性が見受けられます。
また権力維持の方向へ行かざるを得ない理由として各地の戦闘で勝てなかったというのもあるのではないか?
実際、曹丕の時代ははっきりした将軍の活躍も見受けられない。
さらに政治面においても、司馬懿や限られた人材の重宝により魏を傾けさせたと見る点が多い。
しかしながら文化面では自身の文学論『典論』にて、「文章は経国の大業にして、不朽の盛事なり」と文化によって国を安らげる文章経国の思想を掲げている。また、本格的な類書の最古のものとされている『皇覧』(現在、散迭)を編纂している。



曹操の家系はこういった文化面に秀でた人材が生まれますね!
『三国志』の撰者である陳寿は婉曲的に『短気で器が小さい、不公平で誠意のない、寡徳、明君とは程遠かった』としている。


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