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横山光輝 三国志 16 曹操の知謀

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横山光輝 三国志 16 曹操の知謀

目次

はじめに

内容はあらすじ程度に!
ここでは補足として人物などをピックアップしてあとは漫画の方を楽しく読めますように!
というのがこの記事たちの目的!

あらすじ

袁術が滅び、玉璽は曹操の元へ
劉備はまた追われる身になり、鄭玄の伝手を借り袁紹を頼る。

鄭玄をみてみる。

鄭玄は、今文・古文を兼修し数多くの経書に注釈を著した、後漢を代表する学者の一人。そのうち特に『周礼』『儀礼』『礼記』に対する鄭玄の注釈は「三礼注」と総称され、現在もなおその地位を失っていない。

曹操 対 袁紹
劉岱 王忠 劉備のいる徐州へ進軍
しかしまんまと惨敗。
張繍は賈詡の提言により曹操につく。
董承と名医、吉平

キーワード 曹操暗殺計画

董承について

素性は諸説があるが、一般的には献帝の祖母董太后の親族(甥)[3]とされる。しかし、後世の史家からはその親族関係は疑問であると指摘されている[4]。 娘は献帝の貴人(側室)。

一族の最期
建安元年(196年)正月、献帝を迎え入れようとした曹操が、曹洪に兵を与えて派遣してきた。董承は[7]、袁術軍の萇奴と共に要害を守備し、曹洪の進軍を阻んだ[8]。またその翌月、今度は献帝一行に付き従っていた将軍たちの間で争いが発生し、韓暹が董承を攻撃した。このため董承は張楊を頼って逃れ、張楊の指示により洛陽へ先行して向かい、宮殿を修繕した。

同年7月、献帝が洛陽へ到着すると、董承は韓暹と共に宿衛の任に就いた。しかし、韓暹の専横を恐れた董承は、密かに曹操を召し寄せ、その威を借りて韓暹・楊奉・張楊らを追い落とすことに成功している。同年8月、董承は列侯に封じられた。建安4年(199年)3月、董承は車騎将軍に任命され、車騎将軍府を開いた[9]。

董承は、次第に権力を強大化させる曹操を恐れた献帝により下賜された服の帯に忍ばせた曹操を誅殺せよとの密勅を受け[10]、同志(王子服・呉碩・呉子蘭[11]・种輯・劉備など)を集めて謀議を図った。しかし建安5年(200年)正月、計画は事前に発覚し、董承一族やその一派は捕らえられ処刑された。彼の娘の董貴人も妊娠中だったが、それでも曹操は彼女をも殺した。

董承wikiより

どうやら正史のほうでは馬騰は参加してない!?

ピックアップ人物伝 馬騰

正直、馬騰がここで登場しているのを見逃しているのか、印象がない。
はたして、西涼で馬騰はどのような存在なのか?

wikiの馬騰の略歴によると、馬騰は1代で権力をとっている。
反乱鎮圧で功を挙げてのし上がるが、逆に賊軍となり、皇甫嵩に敗れたとある。

横山三国志では董卓に対して討伐軍に参加しているが、ここでは記述がなく、むしろ董卓の長安遷都後に出仕して偏将軍に出世している。董卓亡き後、李傕郭汜の政権に対しては恭順している。

その後、李傕らと私心を通じようとしたが聞き入れられなかったため対立し、益州の劉焉と手を結び[2]、馬宇・劉範・杜稟(中国語版)らの協力を得て襲撃を計画した。韓遂は軍勢を率いて両者を和解させようとしたが、結局再び馬騰に合流することとなった。一方、李傕は郭汜・樊稠・李利を出撃させ、長平観で馬騰らと戦わせた。しかし事ここに至り、馬騰らの襲撃計画が洩れてしまったため劉範が槐里に逃亡。また、長平の王承らも馬騰に危害を加えられることを恐れ、馬騰が出撃し防備のなくなったところを攻撃した。馬騰は軍が壊滅して潰走したものの、引き続き将軍位を授けられている。

その後、涼州に戻った馬騰と韓遂は、義兄弟の契りを結び仲睦まじくしていたが、やがて互いに攻撃し合うようになった。韓遂は馬騰に攻撃され敗走したが、再び軍勢を集めて反撃し、馬騰の妻子[3]を殺した。このため和睦は困難なものとなり、戦が絶えなかったという。

その後、曹操の仲介の元にこの争いをやめたが、以後両者が手を結ぶ事はなかった。二人は曹操軍の鍾繇・張既の影響下に置かれるようになった。

争いをやめた馬騰は召し返されて槐里に駐屯し、そこで前将軍・仮節・槐里侯[4]となった。胡族や族徒の侵入に備え、士人を厚遇して賢者を推挙し、民衆を労わった。このため三輔が安定し、人々は非常に彼を敬愛したという。

袁紹と曹操が対立するようになると、鍾繇は張既を使者として馬騰の下に派遣し、袁紹軍の郭援・高幹を討伐するよう説得した。はじめ馬騰は袁尚の誘いに応じていたが、傅幹の勧めもあったため、鍾繇の下に馬超・龐徳を派遣し合流させ、郭援を撃破させた。その後も馬騰は曹操の援軍要請に応え、龐徳を従え高幹・張白騎・張琰・衛固らの討伐に参加している。

建安13年(208年)、曹操は荊州遠征の際、馬騰らが関中に割拠していることを危惧し、張既を派遣して部曲を解散した上で入朝するよう説得した。馬騰は承諾したもののすぐに入朝しなかったという。このため張既は馬騰の心変わりを恐れ、諸県に命令書を送って食糧を用意し、太守に郊外まで出迎えさせた。馬騰はやむを得ず出立し、朝廷に召されて長楽[5]衛尉となった。 また、子の馬休は奉車都尉に、馬鉄も騎都尉に任じられた。馬騰は一族を引き連れ鄴に移住した。

その後、解体された馬騰の軍が馬超によって引き継がれたが、建安16年(211年)3月、馬超は韓遂らを誘って曹操と敵対(潼関の戦い)することを選び、7月から曹操と交戦し、9月に大敗した。馬超が降伏せず涼州に逃走したので、翌年5月に馬騰は三族皆殺しに処された[6]。馬家は衰退し、最終的には馬超と馬騰の甥馬岱などの僅かな者を残すのみとなった。

馬騰wikiより

こちらの横山三国志ではまったくちがうので興味深い。
またここで皇甫嵩がでてくるが、こちらもまた正史では重要な人物となっている。

トピック 西涼 敦煌 ほんとは涼州

異民族の防衛
これに尽きるのだろうが、この地を見てみる。

三国時代になると魏により州治は姑臧県に遷された。魏代の涼州刺史は同時に戊己校尉も兼任したため、その行政範囲は西域まで及ぶ広大なものとなっている。

西晋末の永嘉年間以後、八王の乱の中で涼州刺史の張軌は自立、前涼を建てると、州南東部に河州を設置している。この時代の涼州は西域諸勢力の拠点となり、前涼以降も後涼・南涼・北涼・西涼などが拠点としている。

北魏が成立すると、涼州はその辺境であるという地理的理由により神䴥年間に敦煌鎮に降格されたが、490年(太和14年)に再設置された。西魏の時代には州西部に西涼州が設置されるなど、細分化が進んだ。北周の時代には西域への要地として涼州総管府が設置されている。

また西涼とはのちの王朝の名前らしい。
西涼の馬騰、西涼の馬超とは演義からきているのだろう。

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この記事を書いた人

東京都下在住のフリーランス。アコギ初心者練習に余念のない元ベーシストバンドマン。ピアノの音すき。つまりは音楽が好きです。
本業の仕事では、ほぼ毎日運転しつつも十年以上無事故無違反のガチゴールド安全運転者。
禁煙歴2年になります。
当ブログの『さいともブログ』ではイヤホンを中心としたガジェット、はたまた横山光輝「三国志」についてのブログとなっております。

ahamo

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