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横山光輝 三国志 5 董卓追討軍

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横山光輝 三国志 5 董卓追討軍

潮出版社 希望コミックス

公孫瓚の軍に劉備たちも参加する

長沙の太守 孫堅

ピックアップ人物伝で後日扱う。

孫堅、味方から兵糧攻めにあう
李儒の助言 劣勢になったから洛陽から長安へ遷都する ろくなものでない

董卓も董卓だが追討軍のほうも活躍する人間を見捨てたり、仲間を裏切ったりと、組織や人間の汚さをふんだんに描いている

身分が低いながらも、関羽は董卓軍の華雄の首をあたかも簡単にとってしまう。
そして、張飛はこの時最強といわれる呂布と互角に一騎打ちをする。
爽快なほどに強すぎるのが心地よい。

しかしどうにもならない身分の低さ
こんな当時でも並々ならぬ格差社会なのがうかがえる。

目次

キーワード 董卓の腹心について

李儒 
ゲームでは知力が90くらいある秀才
Wiki先生かによると正史と演義では少々経緯が違うようだ。

董卓が洛陽に入った頃にはすでに朝廷に仕えており、弘農王(少帝)劉弁の郎中令に就いており、董卓の命を受けて廃された弘農王に毒薬を飲ませて殺害したと記されている。

董卓を殺害した王允らを討ち取った李傕から侍中に推薦された。しかし、かつて異母兄を李儒に弑されたことで献帝から「弑逆の罪」によって粛清されかかり、李傕の取り成しを得て、生き延びている。

『漢郃陽令曹全紀功碑』(曹全碑)は司隷・馮翊郡郃陽県の県令曹全を称えるため185年に建てられたものであるが、そこに同県の学者として徴博士の李儒(字は文優)が見え、『後漢紀』に李儒が博士であるという記録が見えることから[2]、同一人物の可能性がある。

李儒wikiより

演義では

小説『三国志演義』では董卓の娘婿として登場する。董卓が洛陽を支配した後に、弁皇子の殺害及び献帝の擁立や、諸侯による董卓討伐軍が洛陽に迫ったことへの対策として長安への遷都など、董卓に対し悪政の進言を積極的に行い、董卓を追撃した曹操を徐栄とともに迎え撃つなど、董卓の知恵袋として活躍する。

また、王允の「連環の計」にも勘付いて、呂布との対立を深める董卓を諫めるも聞き入れられず、「我々全員は女(貂蝉)の手に掛かって死ぬのか」と嘆いている。李儒の最期は董卓が暗殺されたとき、王允によって連座されて捕らえられ、四つ裂き刑にされた。

李儒wikiより

三国志序盤において良くも悪くももっとも智謀の能力を使い結果を出している。

ピックアップ人物伝 袁紹

董卓追討軍の総大将、そして後々曹操、劉備、孫権にも負けず劣らずの君主、実際はどうだったのだろうか?
三国志を語る上でまったく無視できないがなんとなく単純に興味の湧かない人物、袁紹をみる。

何進と協力して激しく宦官と対立。宦官勢力を壊滅させることに成功したが、董卓との抗争に敗れ、一時は首都の洛陽より奔り逼塞を余儀なくされた。後、関東において諸侯同盟を主宰して董卓としのぎを削った。同盟解散後も群雄のリーダー格として威勢を振るい、最盛期には河北四州を支配するまでに勢力を拡大したが、官渡の戦いにおいて曹操に敗れて以降は勢いを失い、志半ばで病死した。『三国志』魏志および『後漢書』に伝がある。

袁紹wikiより

うむ、素晴らしいくらいの経歴、そして後漢の宦官と闘い、董卓ともリーダーとして闘い、袁氏という名門もあったが、曹操に敗れたのが最大のターニングポイントだと思うが、経歴だけ見てると、もっと評価されても良い人物な気はします。

『三国志』の編者である陳寿は、「袁紹の威容は堂々としており、名声は天下に轟き、河北に割拠した」と前置きしながらも、やはり同じく群雄であった劉表とをまとめて「しかし、外面は寛大に振舞いながら内面は猜疑心が強く、謀を好みながら決断力に欠けていた。また、優れた人物がいても用いることができず、忠言を聴いても実行できなかった。長子を廃して庶子を後継ぎにしようと考え、礼儀を捨て個人の情を重んじた。だからその死後、子孫が困窮し、領地を失ったのは当然であった」と評している。曹操や孫権の後継争いの際にも、袁紹と劉表は悪しき前例として言及されている。

袁紹wikiより

しかしながら、

袁紹は『三国演義』始め、多くの三国志創作では名門の出自によって出世した優柔不断な暗君として描かれているが、史書には以下のような人物像が記録されている。

袁紹wikiより

とある。史書とは魏志などの評価。

敵対している立場から郭嘉が「袁紹は人民、蛮人に恩を施していたから、袁紹の息子たちが生きていられるのです」と発言し、荀攸が「袁紹は寛大さと厚情によって人々の気持ちを把握していました」と発言しており、袁紹の死を民百姓が嘆き悲しんだ事から、仁政を執り行った事が分かる。

袁紹wikiより

曹操はすごい、劉備は律儀、孫権は手堅い、でも敗北した袁紹には優柔不断だから敗れた。
とした方が話としては辻褄が合うからこういう流れなのかな?と思いました。

こんど三国志のゲームをするとき、袁紹をとって善政を敷く進行をしてみたくなる発見でした!

トピック 都市 長安について

シルクロードで交易で栄え、唐の時代では仏教の法を受けに空海も訪れている。
どこかで、唐の時代の長安は今のニューヨークみたいなものと教わりました。

その萌芽として周代に早くも渭水(黄河支流)の中流域に都城が建設されており、その後規模や位置を変えながら現代まで続いている。漢代に長安と命名され、前漢、北周、隋などの首都であった。唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長した[1]。シルクロードの起点とされることもある(シルクロード:長安-天山回廊の交易路網)。また西都(さいと)、大興(だいこう)、西京(さいきょう)と呼ばれていた時期もあった。宋代以降は政治・経済の中心は大運河が通じる東の開封に移り、長安が首都に戻ることはなかった。

長安wikiより

西域に近かったこともあって、王朝の隆盛とともに国際都市となっていた唐代の長安は周辺諸民族が都城建設の模範とした。日本でも平城京や平安京は長安に倣ったと考えられており、日本において平安初中期の詩文の中で、平安京を指して長安と書いている例が見られる。

長安wikiより

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この記事を書いた人

東京都下在住のフリーランス。アコギ初心者練習に余念のない元ベーシストバンドマン。ピアノの音すき。つまりは音楽が好きです。
本業の仕事では、ほぼ毎日運転しつつも十年以上無事故無違反のガチゴールド安全運転者。
禁煙歴2年になります。
当ブログの『さいともブログ』ではイヤホンを中心としたガジェット、はたまた横山光輝「三国志」についてのブログとなっております。

ahamo

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