横山光輝 三国志 4 乱世の奸雄
陳留王 董卓 呂布 丁原 李儒
李粛の説得により、呂布は養父の丁原を斬り董卓へ寝返る。
金銀財宝、赤兎馬、そしておのれの出世のために
曹操 王允の元で董卓を打倒する
陳宮
キーワード 赤兎馬 陳留王
赤兎馬
三国志といえば赤兎馬と言えるほど強烈な印象のある名馬
名馬といえば第一に赤兎馬という名前が上がるほどなのではないか?
赤兎馬(せきとば、繁体字: 赤兔馬; 簡体字: 赤兔马; 拼音: chìtùmǎ; 注音符号: ㄔˋㄊㄨˋㄇㄚˇ)は、『三国志』および『三国志演義』に登場する馬。演義では西方との交易で得た汗血馬といわれている。「赤い毛色を持ち、兎のように素早い馬」の意とも。柿沼陽平によれば、①漢代簡牘に馬高140cm前後の複数の馬を「赤兎」とよんでいる事例があること、②当時の人びとがウサギの頭のかたちをした馬を名馬としていたことから、「赤兔馬」自体は固有名詞でなく、「ウサギ頭の赤毛馬」をさす一般名詞であり、当時赤兔馬にまたがっていたのは呂布だけではない。
赤兎馬wikiより
陳留王
いわゆる後漢のラストエンペラーとなる人物。劉協で献帝
ここでは董卓に認められて、霊帝の後を受けた少帝が廃され皇帝に即位している。
生母の王栄は霊帝の寵愛を受けて、劉協を産むと、何皇后の嫉妬を受けて毒殺されたという[4]。母を失った劉協は、嗇夫の朱直によって暴室で養育された。一年後、霊帝の生母の董太后は劉協を引き取って養育したため、董侯と呼ばれた[5]。
中平5年(189年)4月、霊帝が崩御すると劉弁が即位し[6]、劉協は勃海王に封じられた[7]。
同年秋7月、陳留王に移封される。当時、朝廷では外戚であった何進の派閥と十常侍ら宦官の勢力が対立していたが、8月に何進が嘉徳殿[8]の前で十常侍に暗殺されると、袁紹らが挙兵して押し寄せ、混乱に陥った。数日で宦官勢力は敗れた。しかし、その際に陳留王は少帝とともに張譲・段珪によって、雒陽(洛陽)から連れ去られた[9]。間もなく盧植らに保護され、帰還する事ができた[10]。
その後、朝廷の実権は、混乱に乗じて都へ入った董卓[11]によって掌握される。9月、少帝が廃位され弘農王になると、代わって陳留王が皇帝に擁立された[12]。
初平元年(190年)春正月、董卓の専横に反発した袁紹ら各地の刺史や太守が兵を起こすと、朝廷は翌月に遷都を決め、献帝を長安へ移した[13]。同3年(192年)夏4月、献帝の病気回復を祝い、未央殿で大規模な集会が行われたが、そこで董卓は腹心の呂布に暗殺された。その後、王允が朝廷の政治を取り仕切ったが、一月余りで長安は董卓残党の攻撃を受けて陥落し[14]、政治の実権が李傕や郭汜らに奪われたため、元の木阿弥となった。この頃、反董卓の兵を挙げた諸侯らが各地に戻って割拠したため、後漢王朝は内乱状態に陥った。
興平元年(194年)春正月、元服。2月、亡き生母に霊懐皇后の称号を贈り、文昭陵に改葬。翌年2月、李傕と郭汜の内紛が起こり、献帝はその権力闘争に巻き込まれた[15]。
献帝wikiより
ピックアップ人物伝 曹操
この三国志において初登場のシーンにおいて、ほんとの主人公は曹操だといわしめている。
おそらく誰しもが認める。世界史史上最高級の英雄、ここでは奸雄。
ところで奸雄とは
奸とは、
奸wikiより
よこしま。心や行状が悪い。
同義字:邪
対義字:義
裏切り者。
後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。廟号は太祖、諡号は武皇帝。後世では魏の武帝、魏武とも呼ばれる。
羅貫中の小説『三国志演義』では敵役・悪役として設定される。
曹操wikiより
近年では曹操の再評価が多くある
曹操の魅力はなんといっても人身掌握力によるものなのか、それとも周りにろくな太守がいなかったからなのか、多くの智将武将が集まる。これだけの軍団による適材適所も曹操の最大の能力に感じる。
先の話だが敗北したとはいえ赤壁の戦いを起こせる運用能力、これは曹操にしかなし得ないことだと感じる。
トピック 都市 洛陽
次巻で董卓によって焼け野原にされる都、洛陽についてWiki先生から
河南省西部にあり、黄河の中流にある。総面積は、15,208 平方キロメートルであり、区部の面積は 544 平方キロメートルである。黄河・洛河・伊河・澗河・瀍河が領域内を流れる。東に虎牢関、西に函谷関、北に邙山、南に伏牛山がある。中岳嵩山も隣接する。古くから兵家必争の地であり、歴代の帝王が都を建てようと考えた土地でもあった。
洛陽市の気候の特徴は、四季がはっきり分かれ、冬は寒くて降水が少なく、春は乾燥し風が多く、夏は非常に暑く雨が集中して多いことである。秋には晴れて日照時間が長い。年平均気温は摂氏 14.7 度、年平均降水量は601.6 ミリメートルである。
三国時代の呉から南朝の統治下で江南の開発が進み、華北平原と取って替わって穀倉地帯としての地位が向上した。隋の南北統一と大運河の建設により華北の政権を江南の生産力が支える形が確立された。洛陽は江南の物資を長安の軍事、政治と結びつける集積地として東都とも呼ばれて繁栄した。しかし唐王朝の衰退・滅亡で渭水流域の軍事的政治的地位が凋落すると江南の生産力を華北に移送する集積地としての地位はより東方の開封に取って代わられることとなる。こうして五代十国時代を経て建国された宋ではいよいよ開封が首都とされ、さらに元代以降は政治の中心がモンゴル高原東部の騎馬軍事力を背景とした北京に移り変わってこれを南京に集積された江南の富が支える形が確立して洛陽の歴史的な首都機能は失われた。このため中国本土の中心地としての重要性こそ低下したが、河南地域の主要都市としての地位は現在まで受け継がれている。
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