横山光輝 三国志 35 成都攻略戦
はじめに

本の内容については漫画を読めばいいと思うので、ここでの記事は補足となる、人物や物事を取り上げて漫画を少しでも楽しく読めるようにするのが本記事の目的とします!
よろしくお願いします!



よろしくお願いします!



前回の記事はこちら!


あらすじ


単騎で逃げる劉備であったが、張飛が援軍に駆けつけて一命を取り留める。
孔明も合流して、蜀の将はことごとく、劉備軍の軍門に降っていく。
しかしここで善戦していた張任はとらわれたが主君を変えない忠義を見せて打首となる。
劉璋は後がないとみるや、交戦中の張魯に援軍を求めて馬超を使わす。
そして張飛と馬超の大一番!



もちろん張飛と馬超の一騎打ちと戦の駆け引きも見どころとなっています!



張任は誠の武士だった!



今記事の主役は張任です!
キーワード てこずらせた張任 真の忠義の名将


物語的(演義)には劉備に対する悪役に似たものを感じるが、主君に仕える者の忠義とはなんぞやというのがわかる人物。
これだけ主君のために命をかけて蜀を劉璋を守ろうとした張任。
張任については正史においても演義と同様の解釈になっている。
たとえ負けるにしても、一戦死ぬ気で戦ってほしかった劉璋。
この時にすでに忠義、主君に対して命をかける潔さはどこから来るのだろうか?
やはり儒教のようだ。
忠
「父子天合」(孝)に対して、「君臣義合」(忠)というテーゼがある。
親によく従うことを意味する「孝」とは常に食い違いを来す概念だが、中国や朝鮮では多くの場合、「忠」よりも「孝」が重要だと考えられた。一方で、近世日本においては朱子学伝来以後、逆に「孝」よりも「忠」の方が重要だと考えられ、武士道に影響を与える事になる。また、水戸学派の解釈では、「忠と孝は一つのもの(忠孝一合)」として、分離した解釈は行っていない[3]。日本人(特に支配階級であった武家)は家(血族ではなく組織としてのイエ)の意識が中国人より高く[4]、忠が孝につながるとした(君に忠を尽くさず、家を断絶されることは、孝につながらないとした意識)。この「忠孝一致」に関して、吉田松陰は『士規武則』において、「人君、民を養いもって、祖業を継ぐ。臣民、君に忠にもって、父の志を継ぐ。君臣一体、忠孝一致はただわが国のみ然りとなす」と説いており、日本の独自性(国が亡ぶ度に替わる中国の忠とは違う点)を指摘している。これに対し、懐徳学派の武内義雄は否定し、「誠(まこと)」が忠にも孝にも現れたと解釈する[5]。この誠から忠孝が生じるとする考えは新渡戸稲造も指摘しており、自著『修養』(明治44年刊)の「名誉の標準はいずれに求めるべきか」の項において、中国の忠孝が、君や親といった己以外の対象(相手)に標準(基準)を求めるのに対し、キリスト教では己の「愛」の情が、君では忠、親には孝として現れ、日本では誠の心がこれに当たると述べ、東洋独自というより中国のみが忠孝という独自の概念をもち、日本にはこれらの和訓がないとしている。
文化大革命では、他の儒教的徳目が徹底的に排撃されたのに対し、「忠」は毛沢東への忠誠と解釈され、むしろ賛美された。「忠字舞」(忠の字踊り)が当時盛んに行われたことが有名。
全然関係ないかもしれないが、【誠】が忠にも孝にもなるというが、新撰組の誠はなんだったのか!?
気になってしまいます!



しっかりこの三国時代の儒教の影響力についてレクチャーしてください!



はい!
張任の生涯





横山三国志でもこの三國志11にもいえることだけど、ちょっと嫌な感じするんですよね



やはりそこは劉備が主人公たる所以ですね!
元々は貧しい家の出
文武に優れており能力を発揮して州の従事になる
劉備が益州に攻め込むと、冷苞や鄧賢たちと劉備軍を迎え撃つ。
しかし敗れて捕虜となる。
劉備は何度も臣従を勧めたが
「老臣は決して二君に仕えるつもりはない」と決して下ろうとしなかった。
最後は首を刎ねられる。



ここのポイントは老臣ということですな!



さすが!演義では厳顔が老臣とされているが、張任も老臣でした!



脚色があれども正史でも武士そのもの!
ピックアップ人物伝 孫乾 簡雍 糜竺


さて、前回の記事では劉璋配下で後に劉備の元でも蜀の将として戦う人物(彭羕 厳顔 呉懿 呉蘭 雷同 費観 費禕)をみたが、古参の劉備配下の人物を見てみる。


孫乾


ソンカンかと思いきや正式にはソンケンのようだ。
ゲームをするとき、劉備の初期から関羽、張飛とこの孫乾がいるのだが、横山三国志においては使者としての登場くらいの印象でなかなかはっきりしたものを見出せていない。
簡雍


こちらも劉備旗揚げの時からの古参の将。
簡雍も孫乾同様、使者としての役割が多く、この蜀との戦いにおいても最終的に劉璋への降伏勧告の使者として赴いている。
糜竺


糜竺に関しては、武将の面もあるが、やはりこちらも使者としての文官のイメージがある。
もともと陶謙の配下であったが、陶謙が死んで、そのあと劉備の配下となった。
その後、劉備が窮地に陥ると、自らの下僕2000人と金銀貨幣の財産を劉備へ割いた。
このことにより、官位としては孔明を上回る待遇を後々受けている。



そして麋竺の妹が劉備の奥さんになってますね!



長坂橋の戦いで井戸に身を投げたご婦人ね


この3人から見るこの時代の使者の重要性


この3人に共通する項目として、使者という役目がある。
特に重要な情報については書状による伝達ではなく、使者を通じた口頭による伝達が最適とされた。
その理由として、書状のみでの伝達では
詳細な情報を書状に書くことは、書状の奪取・盗難・紛失による情報流出の恐れがあること。
使者 wikiより
書状のみでは、それが偽文章である可能性が生ずること。防止策として花押・印判の使用も行われるが、それを含めた偽作も否定できない。
遠方では書状の内容と異なった展開が発生した場合、書状のみではそれに対応できないこと。
を挙げることができる。
よくよく考えてみれば、現代においても重要な外交は直接会って話を進めるのが礼儀でもあり、約束事をはっきり世間に対してもわかるようにしている。
この時代においても、使者が平然と敵国あるいは他国へ赴くという行為が世間にもわかるようにというパフォーマンス的なものがあるのかもしれない。
トピック 劉璋とその親、劉焉について
劉焉については32巻の記事、【トピック 益州について】でも取り扱ったが、この親子を見てみる。
劉焉
正史wikiを見る限り漢の宗室を歌ってることもあるが、高学歴の官僚政治家的な立ち位置
中央の不安と弱体化、黄巾の乱、などにより
混乱を避けるため、当時の益州勅使を取り調べるという名目で益州に入り、
紆余曲折を経てここでの実権を握るにいたる。
また益州牧となって、独立する構想を持つ。
東州兵という軍団を作り、宗教指導者の張魯と組み、漢中に派遣し、中央と分断するため、豪族らを弾圧した。
しかし相次ぐこの不幸により体を壊し、病死する。



実は野心家だった!



野心持つとやることがえげつなくなるねぇ



張魯の母上ともなんかあったみたいだし!
劉璋
献帝の近侍として2兄とともに使えるが、父、劉焉の益州での暴走により劉璋は諫め役として益州へ派遣される。
しかし劉焉はこれを聞かず劉璋を戻さず
194年2兄が亡くなり、そのショックもあり劉焉も病死する
そのあと益州牧を継いだ形となる。それに伴う反乱も鎮圧。
曹操が荊州を制圧すると、使者を遣わし曹操に敬意を表す。
しかし張魯や曹操の脅威と自らの戦不得手から、あっさり劉備を益州に入れてしまう。
そして家臣の考えをまとめられず、決定的な軍師も現れず、劉璋の蜀は奪われるべくして奪われる。



この戦に自信がないというところがポイントかな?



こう考えると張任は軍事的に大いに任されて、信頼されて恩義を感じていたのかな?
横山三国志においては愚君主的な描かれ方だが、キーワードでも扱った、忠義の臣、張任のような人物を生んだ土壌に劉璋はなりえたのか!?
wikiから見る劉璋は優柔不断だが、領民思いではあり、しかしながらなんら魅力があるのかといえば、何も感じない普通の人というイメージ。
命をかけて戦った武将は浮かばれず、全てが後手に回っている印象。
32巻の記事でも述べた、劉焉もどちらかと言えば、同じ印象がある。
中央政権から逃れ、益州へ入りうまくしたたかに運営した印象もあるが実は野心家だった!





最後まで読んでいただきありがとうございました!
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