横山光輝 三国志 33 蜀への隘路
はじめに

本の内容については漫画を読めばいいと思うので、ここでの記事は補足となる、人物や物事を取り上げて漫画を少しでも楽しく読めるようにするのが本記事の目的とします!
よろしくお願いします!



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前回の記事はこちら!


あらすじ
曹操にぼこぼこにされた張松であったが、今度は劉備の元へ足を運ぶ。
そこで待ち受けていたのは、手厚い出迎えであった。
そして劉備は入蜀し、劉璋サイドとの駆け引きが始まる。
一方で西涼の憂いを絶った曹操は孫権を倒すべく、濡須口へと南下する。
またここで孫夫人が策略により呉へ帰っている。
そもそも隘路(あいろ)とは
幅が狭い道路。狭隘道路。
隘路wikiより
日本の運転免許である大型自動車仮免許、中型自動車仮免許の技能試験で課される課題。車両を停止させずに車体の向きを90度変え、隘路となっている進入範囲内に車体のすべてを入れ停止させる課題である[1]。
戦術学において複数の道路が谷間などの障害地形の存在のために集合し、比較的に長距離に渡って単一の道路となっているような戦術的な要路を指す。


キーワード 礼


そもそも礼とは儒教用語であり、秦代において焚書坑儒によって礼に関する書物が多く紛失したものの、この三国志において大きくまとまりついている印象。
というより出来上がっている印象。
後漢末期の動乱状態において、儒教による礼および作法は権力者にとってのマナーや評判をよくするツールとして確立しているのがわかる。
前回持ち上げた、張魯や道教にもまた同じようなことが言えるかもしれない。
礼は儒家によって観念化され、秩序原理にまで高められた。荀子によって理論的整備がなされ、六経の一つとして挙げられると、礼を研究・実践する学問である礼学が起こった。
礼wikiより
この時代というより、時代、時代の中国史を知る上で儒教というのはしっかり抑えられれば、三国志に思いを馳せやすくなれそうだ。
ピックアップ人物伝 張松


横山三国志において張松は曹操に嫌われて百叩きの刑にされているが、どうやらそれは正史において記述はないが、嫌われたのは間違いないようだ。また楊修にも評価されていたのは横山三国志と共通する。
しかしながら、赤壁の戦前と話は前後する。
張魯が曹操と組んで成都へ侵攻することを恐れ、曹操への使者を三回に分けて出し、帰服の意志を伝えさせた。先の二名の使者は歓迎を受けた。しかし三度目に赴いた張松は、赤壁の戦いの直前で曹操が慢心していたため、冷たく扱われた。このため張松は腹を立て、劉璋には曹操と絶交し、劉備と結ぶよう進言した(「先主伝」・「劉璋伝」・『漢晋春秋』)。
張松wikiより
解釈によれば張松が私事で曹操ではなく劉備につかせるよう計っているが、劉備勢には都合よく、張松は劉備勢を蜀へと入れてくれた大恩人というのがいえる。
トピック 荀彧の死


今回の33巻は西涼への憂いを絶った曹操は孫権を倒すべく濡須口へ兵を進める。
しかしこの戦の後、荀彧は死ぬ。
荀彧については11巻にて触れたが、曹操にとっては右腕といっても等しい人物。
劉備よりの三国志演義では、なかなかその凄みを味わえないので、彼の凄みと突然の死について触れたいと思う。


荀彧の活躍
軍師となるとなんといっても大事なのが曹操、主君との信頼関係。
荀彧はどのようにして曹操との信頼関係を結んだのだろうか?
とにかく荀家は荀攸はじめ多くの智者、政治家や官僚といった具合の学のあるDNAを持ち合わせている。
荀彧と同時代に活躍した人物としては、荀淑の六男で叔父の荀爽がおり、董卓に取り立てられ司空にまで上るが、董卓の暴政に反感する中で死去した。また、荀淑の3男の荀靖も荀爽と並ぶ名声を持ち、許劭に認められた(皇甫謐『逸士伝』)。
荀彧の従子(ただし、荀彧より年長)には同じく曹操に仕えた荀攸がいる。荀彧の兄弟には荀衍(じゅんえん)[2]・荀諶(じゅんしん)[3]がいる。また、荀彧の従兄である荀悦(じゅんえつ、荀倹の子)は荀彧兄弟や荀攸と並ぶ名声を博した(『荀氏家伝』)。
荀彧wikiより
荀彧は董卓の乱やその後の李傕郭汜から逃れて冀州へ赴くが、袁紹には大業わなし得るのは無理として、袁紹の元から去り、曹操へ仕えた。
「わが子房である」と大いに喜んだ。子房とは前漢の張良の字であり、劉邦が智者の張良を幕下に加えて覇をなしたことになぞらえたのである。初平2年(191年)、荀彧は29歳のときである。
荀彧wikiより
曹操にこう言わしめているところ、すでに荀彧の知謀学識は世間に広まっていたことが伺える。
決して大きな名門の出ではない宦官の父を持つ曹操ではあるが、これだけの学のある名門の荀家の荀彧を得ることは相当大きかったのではないか。
功績
董卓の脅威に対しての荀彧の見方は、近いうちの自滅を予見している。
また192年、曹操は陶謙を討伐すべく徐州へ赴いたが、荀彧は根拠地の兗州へとどまる。
しかし太守の張邈が陳宮にそそのかされて呂布を呼び込み、陳留にて謀反にあい、曹操勢力は絶体絶命を迎える。
そして荀彧の守る鄄城に援軍だと称した呂布の軍勢がくる。
荀彧はここで陳留での謀反を察して濮陽の太守、夏侯惇へ使者を送り合流を計るが、
兗州において大半が呂布に呼応しており曹操に敵対していたが、
巧みに夏侯惇をつかい、内通者を片付けていく。
そして荀彧は他勢力を巧みに使い、
曹操陣営に残った三城を曹操の帰還まで死守している。
また陶謙が死んだ後の徐州を曹操は攻めようとしたが、兗州の内政が先だと諫めている。
さらに荀彧は兵糧さえ集めれば呂布を倒せるとし、
見事呂布を破り、兗州を取り戻している。
ここまでみてきてすさまじい功績である。



荀彧ってこんなにすごかったのか!?
また献帝が長安から亡命して受け入れるよう進言したのも荀彧でこれにより侍中・尚書令となった。
曹操は出征して都の外にいるときでも、軍事と国事に関する全てのことを荀彧に相談した。
あるとき、曹操が荀彧に「君に代わってわしのために策を立てられるのは誰か?」と聞くと荀彧は「荀攸と鍾繇です」と答えた。荀彧が多忙であるとき、曹操は常にその二名を幕僚とした。また、これより前に、曹操が策謀を相談できる相手として戯志才を推挙し、その死後は郭嘉を推挙した。
清流派の名士であったその人脈や人物眼から、官僚の推挙や人材発掘 (中略)にも力を発揮した。登用した人材で大臣に昇る者は十数人を数えたという(『荀彧別伝』)。大成しなかった者は厳象や韋康のように、地方での任務のときに落命してしまった者ぐらいであったという。
荀彧wikiより
荀彧は常に曹操の気持ちを理解して、西方の馬騰、韓遂勢力、北の袁紹勢力の状況を把握し曹操を説得している。
張繍、呂布を破った曹操はついに袁紹との決戦に挑もうとするが、
荀彧はこのとき主戦論について官渡の戦いにおいて
、苦戦中になるも曹操を励まして見事勝利を手にしている。
そして袁氏討伐にも活躍して河北を曹操のものとする功績をえる。
荀彧なくして曹操はいない。


荀彧の死
赤壁の敗戦後、曹操と荀彧の仲は献帝をめぐり離れていく。
212年(建安17年)、董昭らは曹操の爵位を進めて国公とし、九錫の礼物を備えてその際立った勲功を顕彰すべきだと考え、準備を進めていた。
この様な動きに対し荀彧は、儒者の立場から「公(曹操)が義兵を起こしたのは、本来朝廷を救い、 国家を安定させる為であり、真心からの忠誠を保持し、偽りのない謙譲さを守り通してきたのだ、 君子は人を愛する場合徳義による(利益を用いない)ものだ、そのようなことをするのは宜しくない」と、曹操の腹心の中では唯一、断固として反対の姿勢をとった。しかし曹操は次第に、魏公の九錫を受ける意思を明らかにし始めていた。
この死には謎が多く、自殺とも言われる。『後漢書』『魏氏春秋』では、曹操から贈られた器の中身が空だったために、その意図を「お前はもう用済みだ」と解釈した荀彧は服毒自殺した、とある(「器は空だった」と正直に言っても「中身があった」とごまかしても主君を誹謗した罪を受けるため)。また、『献帝春秋』では、かつて董承が殺害されたとき、伏完から曹操への反乱を仄めかす手紙を送られたことを長期間黙秘しており、それが発覚することを恐れて自己弁明紛いの告発をした為、曹操から疎まれたことが遠因であるともいう。
この翌年には曹操は魏公になっいる。
荀彧の功績は極めて大きかったが、荀攸や鍾繇ら多くの者が魏の功臣として曹操の廟庭に祭られる中、荀彧が祭られることはなかった。裴松之はこのことについて、荀彧が晩年に曹操へ異議を唱え、魏の官位を得ることなく亡くなったからと推測している。
荀彧wikiより



最後は乱世にありがちな英雄と側近の仲違いがあったけど、
曹操勢力をここまで大きくしたのは間違いなくこの荀彧だね!!



演義でもっと荀彧の活躍を見たかった!


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