横山光輝 三国志 32 渭水の決戦 蜀と漢中、涼州の関係
はじめに

本の内容については漫画を読めばいいと思うので、ここでの記事は補足となる、人物や物事を取り上げて漫画を少しでも楽しく読めるようにするのが本記事の目的とします!
よろしくお願いします!



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前回の記事はこちら!


あらすじ
難局立たされる曹操、そこへ夢梅老人なるものがあらわれ、城作りのヒントを授かる。
そして馬超と許褚の一騎打ちがはじまる。
戦線が膠着するとおのずと謀略合戦になる。
しかし!曹軍には賈詡という希代の軍師がいる。
賈詡による離間の策が成功して、韓遂は馬超に腕を斬られ、西涼軍は壊滅し、曹操が勝利する。
そして漢中の張魯の登場。
さらに蜀へと話が進む。
漢中も蜀も曹操へつくか、勢力を大きくするかで動いてゆく。


キーワード 道教


前回の涼州においての漢民族と異民族の狭間での馬騰や韓遂、そして馬超を見てきたが、
この漢中において、はたまた別の世界が存在しているようだ。
しかし馬超がここへ世話になりに来れるというのは、なにかしらの交流的なものもあったのだろう。
この漢中における道教を見てみる。
この時代においては新しい宗教という感がある。しかし新興宗教にありがちな弾圧的なものは見受けられない。
道教の教団の制度は2世紀頃の太平道に始まる。後漢時代の中ごろ、于吉という人物が得た神書『太平清領書』を弟子が順帝に献上したが役人によって死蔵された。これを入手した張角が、「黄老道を奉事」して立ち上げた宗教集団が太平道である。実際の活動は「首過」(天や鬼神への懺悔)や「符水」(符を入れた水を飲む)などで病を癒すようなものだったが、後漢末期の不安定な時代に多くの信者を集め、やがて軍隊のような組織化を成した。そのため政府から弾圧を受けたが、184年ついに蜂起、これが黄巾の乱である。しかし太平道は間もなく鎮圧され、教団は壊滅した[8]。
太平道よりやや遅れ、蜀で張陵が興した五斗米道(天師道)も道徳的反省を行い鬼神の祟りを避け病を癒す「思過」を説くなど、太平道と似通った性質の宗教集団であった。しかしこちらは政治と上手く折り合いをつけ、また天師(教主)を頂点に置いたしっかりした教団組織を持つなどの違いから発展し、3代目張魯の頃には蜀から中原に広まっていた[15]。魏の曹操は蜀を滅ぼした後、張魯ら一族を厚遇し、信者数万戸は黄河や渭水流域に移住させ、この地で五斗米道は大きく広がった[15]。
道教wikiより
wikiでのこの引用がなかなか的を得ている。ここからひとつ読み取れるのは道教において聖地的なものも見えてきていない。
本来はあって然るべきなのだが、あくまで思想体系が重要なのを物語っているのだろうか?
また横山三国志においてもこの辺の事柄は詳しく描かれており、上のwiki引用と変わりはない。


「老荘の思想」と「5世紀に歴史的に形成された道教」とは、伝統的に中国では前者を《道家》と呼んで後者の神仙思想を下にした道教とは厳密に区別されるが、欧米では両者ともに“Taoism”と呼ばれたため、それを承けて道教と道家は同じものを指すと考えられるようになったが、近年では欧米でも道家と道教は区別されている。
道教wikiより
また現代においては
全世界で道教の信徒を自認する人は約三千万人程度であり[2]、 現在でも台湾や東南アジアの華僑・華人の間ではかなり根強く信仰されている宗教である。中華人民共和国では文化大革命によって道教は壊滅的な打撃を受けたが、民衆の間では未だにその慣習が息づいている。現在では共産党政権下でも徐々に宗教活動が許され、その宗教観の修復が始まっている。
道教wikiより
道教についてはやはり世界的といってもよい宗教なのは理解できるが、なかなか整理するのはあまりにも簡単にはできない。
ピックアップ人物伝 張魯


その道教教団の教祖だが、五斗米道とは道教の一派と考えて良い。
しかしながら先にも述べたが、こういった宗教団体は何かしら弾圧があるのが見え隠れするが、曹操にしても他の劉備や馬騰にしてもそういった動きはなく、むしろ歓迎しようとしている。
そう考えるとよほど張角の黄巾賊は暴力的で扇動度が高かったことがいえるかもしれない。
こういった団体が起こるのも後漢の中央政権がぐちゃぐちゃになっているのに起を感ずる。
そんななか張魯の勢力は誕生する。
張魯の教団は祖父が建て、父と母により漢中に居着いて、張魯によって強固にされた。
張魯の母は巫術と美貌の持ち主で蜀の劉焉の家に出入りして、取り入ってもらったとある。
劉焉が亡くなると、その後の子の劉璋には就かず独立勢力として漢中にとどまった。
これに激怒した劉璋は蜀に留まっていた母や家族は処刑される。
張魯が治めていた漢寧では街道が各所に敷かれ、「義舎」(休憩所や食堂の類)も造られた。また、信者から得ていた税や寄進などによる5斗の米も、自身の享楽に使うことはほとんどなく、扶助関係に費やした。張魯は漢中で、当時としては珍しいほどの善政を敷いていたのである。
こうして張魯は、後漢の実権を握った李傕や曹操でさえも、簡単には手出しできないほどの勢力を築いた。朝廷は張魯を鎮民中郎将・漢寧太守に任じ、その支配を追認して、義務も貢納のみでよいとした。住民から玉印を献上されると、部下達[5]が張魯に漢寧王を名乗るよう進言したが、閻圃が「王を名乗れば災厄を受ける」と諫めたため、王号を名乗らなかった。
ここまでが物語三国志に登場するまでの張魯となる
。
トピック 蜀 益州


この時代の蜀とはどんな土地柄なのか!?
険しい桟道、地理的に攻めるのも厳しく、多分に中央政権から離れており、後漢において中央政権に寄り添いつつ、独特な地域を形成し、現代においても四川料理など独特の文化を持っている。
前206年に秦が滅亡し、劉邦が項羽から漢中と巴蜀が与えられる。漢中王を号した劉邦は当地を基盤として勢力を増大し、やがて項羽を討ち中国を統一、中華王朝としての漢朝を建国した。漢王朝が出来た当初は流刑地として以外には開拓が進まなかったが、徐々に豊かになっていく。三国時代には、諸葛亮が益州(四川盆地、漢中盆地)を評して、天然の要害で土壌も豊かな天府の地であり漢の劉邦の帝業の基礎となったと述べている)。彼を幕僚とした前漢の皇族劉勝の末裔劉備によりこの地に蜀漢が建てられ、魏呉と天下を争った。
四川省wikiより
またここでは劉備より以前にこの蜀を収めていた、劉璋の父、劉焉に触れねばならない。
劉焉


後漢末の動乱期において、各地に割拠した群雄の1人。益州の地方官として赴任しそのまま独立勢力を築き、三国時代の蜀の先駆けとなる。
劉焉wikiより
人柄などについてはこれといった記述は見られないが、先のピックアップ人物伝の張魯の項でもふれたが、張魯の母が劉焉の家に出入りしていたというのが気になる。
また、あわよくば天子になろうという野望を仄めかしていることから、隣の荊州勅使の劉表、はたまた陳寿にも批判を浴びている。
劉焉は、賈龍らに迎えられて益州に州牧として赴任し、綿竹県を拠点とした。劉焉は離反した者達を手懐け迎え入れ、寛容と恩恵で住民を懐柔しながら、秘かに独立する構想を持ったという。
興平元年(194年)、劉焉は、子らの非業の死の悲しみや災害など、相次ぐ不幸が重なったため、その心痛から背中に悪性腫瘍を患い同年に死去してしまった。
実力者であった趙韙の思惑で、温仁(温厚かつ仁徳の有る人)との評判であった劉璋が後を継ぐ事になった。(恐らくは、強気な人間でなく傀儡にし易いということであろう。加えて、長子継承の通念から、長子以外の子が教育を疎かにされるケースが日本でもあったように、もともと末子であった彼が、事業継承を期待されていたかどうかも疑問であり、政治経済の切り回し等がそもそも不得手だった可能性があるかもしれない) 趙韙は朝廷に劉璋を益州刺史に推挙し、朝廷からは監軍使者・益州牧を兼務することを許された。趙韙も征東中郎将に任命され、荊州の劉表への攻撃を命じられた[9]。
張魯の漢中での独立と、東州兵と益州豪族との摩擦などによって、益州は混乱することになる。
劉焉wikiより
中央で曹操、呂布、陶謙や袁紹、のちに呉に孫権、荊州に劉表と群雄の争いがあるなか、涼州、漢中、蜀と駆け引きありきの同盟関係の構築がここまで見てきた興味深いところとなった。
このような土台、土壌があり、劉備はこの地を治めるべく話が進んでゆく。


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