横山光輝 三国志 30 周瑜と竜鳳
はじめに

本の内容については漫画を読めばいいと思うので、ここでの記事は補足となる、人物や物事を取り上げて漫画を少しでも楽しく読めるようにするのが本記事の目的とします!
よろしくお願いします!



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前回の記事はこちら!


あらすじ


赤壁戦後どうしても呉は勢力拡大を野望し、孫権は張昭の策を用いて華歆を間者として都へ使わす
曹操は鄴にて銅雀台を9年の歳月をかけて完成させる。
そんな中、曹操は孫権と劉備が姻戚関係と荊州太守に劉備を孫権が天子に推薦した報を聞き、仲を引き裂こうと策を用いる。
ふたたび魯粛が使者として劉備のもとへ。
そして孔明は周瑜と最終対決を図ることになる。
そして孔明の追撃となる手紙で周瑜は死ぬ。
悲しみに暮れる呉であるが、そこへ孔明は趙雲と兵500を連れて、弔問へ訪れる。
孔明は呉の人々を感動する弔辞を詠む。
そしてふたたび龐統が現れ、孔明と対談し士官を薦める。
劉備は孔明と龐統という大軍師をもつこととなり、この後の期待が大きくなる。
ふたたび馬騰が都へ呼ばれる。
馬騰についてはこちらの記事を!


キーワード 銅雀台


銅雀台(銅雀臺、どうじゃくだい)は、魏の太祖、曹操が魏王に昇爵した時に鄴(ぎょう)(現在の河北省邯鄲市臨漳県三台村)に造営した宮殿。210年の冬に造営された。現在は遺跡がある。
銅雀台wikiより
そういえば、孔明が周瑜に2人の美女を差し出せば、呉は守られるような話をして、それが周瑜の妻、小喬となり周瑜を激怒させたが、曹操の趣味が人妻というエピソードをドラマのほうでみました。
ピックアップ人物伝 龐統


劉備の配下、軍師になり蜀にて活躍したのはほぼ正史と同じだが、劉備は以下の前は少し違っている。
横山三国志では孫権と謁見してみて孫権を見限っている。
正史においてはどうやらはじめは孫権についていたようだ。
なので周瑜や魯粛とも面識が濃い。
ちなみに龐統は荊州にて周瑜の元で功曹となり、また劉備の元でも功曹だったというが、この功曹というのは、今でいう自治体の人事部の官職といったところのようだ。
人物
龐統は人物評価を好んで行なったが、その場合はいつもその人物を過大に評価していた。ある人にその理由を尋ねられた際、龐統は「現在天下は乱れ、正道は衰え、善人は少なく悪人は多い。褒め過ぎるくらいの評価をして、名誉欲を満たしてやらなければ、善事を行なう者は増えないだろう。志ある者に希望を与え、努力させられるのだから、これもいいではないか」と答えている。
龐統は江東に帰還する際に、呉の陸績・顧邵・全琮らとは懇意であり、龐統は陸績を「駿馬」、顧邵を「足が遅いが力のある牛」、全琮を汝南の樊子昭に例えて褒め称えた。龐統が周瑜の喪の帰りは、彼らが見送りにやってきており、陸績と顧邵から別れの際に「天下が太平になったら、また四海の士を批評しましょう」と言われるなど、深い交流があった。
『三国志』において、龐統の伝は法正の伝と同時に評されている。陳寿の評にいわく「龐統は常に人物批評を好み、経学と策謀にすぐれ、当時、荊・楚の地域の人士から、才能に秀でた人物と謳われていた」「魏臣に当てはめると荀彧の兄弟」とあり、法正と共に曹操腹心の軍師たちに匹敵すると評価されている。
龐統wikiより



龐統と法正がもっと長生きしていれば、孔明の負担も軽く済んだだろうに!



タラレバをいってものう・・・
トピック 軍師


軍師というのはなにか!?
たとえば、艦隊を率いる提督がいて、その下で作戦を考える参謀などあるが、似ているようでもありちょっと違う感じもする。
曹操は後漢の丞相という地位にいるが、皇帝の次なる存在だが、またこれも違う気がする。孔明も後に劉備が蜀漢の皇帝になった時に丞相の地位につき、劉備の死後は明確に軍師というよりは丞相という肩書きが強い印象。
軍師というのはまさに現段階での孔明、そして龐統を指している。
では軍師とはなんなのか?



お呼びですか?
後漢末期の群雄蜂起に際して軍師が再び現れた。袁紹における盧植[5]、劉表における蔡瑁[6]が例として挙げられる。盧植は黄巾討伐で功を挙げた当代の名儒として、蔡瑁は荊州の名士として知られていた。当時の名士とは高い名声を持った知識人(主に儒者)のことである[7]。名士は学識・知恵を期待されて、あるいは群雄が覇権を正当化する象徴として、あるいは名士層を抱き込む目的で軍師として迎えられたとみられる。
軍師wikiより
後漢の主な官僚登用法である郷挙里選は地方官や地方の有力者がその地方の優秀な人物を推薦する制度であり、その地方での名声が重要視されたので、名士は郷挙里選で推挙されやすかった。郷挙里選の中で特に重視された孝廉では儒教の教養が重視された。孫権の軍師になった張昭も孝廉に推挙されているが、徐州など北方で名声を博した名士であり、孫策は張昭を師友の礼をもって遇している[8]。
劉備政権で軍師中郎将・軍師将軍・丞相を務めた諸葛亮は若くして司馬徽・龐徳公に「臥龍」と評されて期待された荊州の名士であった[9]。劉備の死後、諸葛亮は劉禅政権を丞相として取り仕切ったが、荊州出身の人材を重用し、自身の後継者にも荊州出身の蔣琬を指名した。
つまりは軍師とは群雄割拠のこの時代の流行りという解釈になる。
そして、その流行を曹操は最大限に活かして、郭嘉や賈詡、荀彧や荀攸、程昱や楊修、そして司馬懿という人材多数を軍師として迎えている。
しかし三国が形成され、群雄割拠状態がなくなってくると、軍師という肩書きは薄れていっている印象。
また日本でも戦国時代、豊臣秀吉の軍師として竹中半兵衛や黒田官兵衛と出てくるが、これは江戸期に流行った三国志演義からきていることがwikiで確認できる。
このように軍師を見てきたが、劉備は孔明を三顧の礼で迎える以前はこの流行に乗れていない。
やや飛躍かもしれないが、有能な軍師を得るには相当の思いが劉備にはあり、このことから有名な『三顧の礼』と『水魚の交わり』ということわざができたのかもしれない。



流行という解釈はなかなか新鮮で面白かったです!
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