横山光輝 三国志 29 政略結婚 泣く子も黙る張遼についても!
はじめに

本の内容については漫画を読めばいいと思うので、ここでの記事は補足となる、人物や物事を取り上げて漫画を少しでも楽しく読めるようにするのが本記事の目的とします!
よろしくお願いします!



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前回の記事はこちら!


あらすじ


孫権自らの出兵で合淝城を攻めるも、張遼、楽進の活躍により敗退する。 一方で劉備は劉琦が亡くなり、呉と約束していた荊州返還を迫られる。 しかしここも孔明の策により使者としてきた魯粛はまんまと騙されてしまう。 そこへ周瑜の打った手は政略結婚となっていく。 そして玄徳なき者としようとするが、ここでも玄徳は場を凌いでいく。



孔明の手のひらで踊る呉の重鎮たち!



赤壁敗戦後の魏をしっかり守った張遼の活躍!


キーワード 政略結婚





大昔だけの話かと思いきや!



え!現代でもあるの?!
昔の話だから平然とみられるが、では現在ではあるというのだろうか?
会社や旧家の存続や閨閥の目的のために、当人同士の同意よりも優先させて結婚させること
政略結婚 wikiより
戦国時代の「政略結婚」とは異なり、一応お見合いという形でとることはあるが、比喩的にそう呼ばれることが多い
銀行と取引先の企業との間で、経営者の娘と銀行幹部(その逆もある)を結婚させるなどの政略結婚は、現代でも行われている。
親会社と子会社、一企業とその株主、同一社内の上司と部下(または先輩と後輩)といった例もある。
結婚は基本的に両者の合意が必要であるが、上下関係で下になる者に断る機会を与えない場合も少なくない(断ると組織関係では解雇や閑職や地方への左遷、損害賠償、親族内では勘当、相続廃除などの制裁をちらつかせる)。
大相撲においては、江戸時代から伝統的に親方の娘と結婚して年寄名跡を継承する例が多い。特に部屋継承において多く、こういう場合には政略結婚と俗称されることがある。
当事者同士(入籍者)の気持ちを無視して家の利益のためだけの結婚だと揶揄されてもいる[3]。
個人の人権・意思が尊重される現在においては、背景に何らかの組織的利害関係が絡む政略結婚には、批判・否定的意見も多い。


閨閥
閨閥(けいばつ)とは、外戚(妻方の親類)を中心に形成された血縁や婚姻に基づく親族関係、又はそれから成す勢力、共同体、仲間などを指す[1][2]。もともとは中国語で「閨」の意味は夜、寝るための部屋のこと。婚姻は政略結婚[3]も含み、政界、財界、官界さらには王室、貴族に属す一族が自身や血族の影響力の保持および増大を目的に、婚姻関係を用いて構築したネットワークを門閥(もんばつ)と呼ぶこともある[4]。
閨閥wikiより



門閥貴族というのは聞いたことあります!
そもそもの政略結婚
同盟を結び、戦争回避を目的としたもの
政略結婚wikiより
侵略推進を目的としたもの
結婚相手の君主の継承権(王位継承権 )を得るため
経済的支援を得るため
歴史のなかから主なものとして、政略結婚で栄えたものとしてハプスブルク家がある。
またモンゴル帝国も部族の連合であり、同盟による婚姻が主だった。
また日本の戦国時代も然りで、逆に江戸幕府になると規制がかけられている。
ピックアップ人物伝 張遼


若い頃、武力が常人を越えていたため丁原に見出される。
後に洛陽へ上り何進の命で1000人の兵を集めて帰還。
しかしながら何進はすでに宦官に殺され、実権を掌握した董卓に仕える。
そして董卓を殺した呂布につく。
198年、下邳で曹操に敗れた呂布が処刑されると、張遼は曹操に降伏する。
官渡の戦いでも降将の関羽とともに活躍する。
関羽とは兄と慕い、敵ながら親交をもつ。
ここまでみてみると、張遼は主君が次から次へと変わっている。
普通ならどこかで処刑なり、されててもおかしくないのだが、ここに張遼の凄みがあるのか?
敵将である関羽を慕うように人に対する人当たりがよかったのではないか?
曹操がやる戦、ほぼ全てにおいて活躍して武勲を立てている。
これだけの武勲をあげてると、古参の曹軍の将に嫉妬されてもおかしくないのだが、そういった話はwikiからは見えない。
むしろ同等の于禁や李典などとは不仲といっている。
赤壁後は呉の侵攻を防ぐべく、合肥にてよく戦っている。


陳寿は、曹操在世時に最も功績があった将軍として、張遼・楽進・于禁・張郃・徐晃の五人を一つの巻に収録しており、張遼はその筆頭に位置付けられている。
『魏書』は、張遼が捕虜の中から抜擢され、佐命立功して名将となったことを、曹操の人物眼が優れていたことの例えとして挙げている。
『傅子』は、曹仁の勇に次ぐのが張遼であるとしている。
唐の史館が選んだ中国史上六十四名将にも選ばれている(武廟六十四将)。他に魏で選ばれているのは鄧艾だけである[注 2]。
洪邁は『容斎随筆』で、寡兵で大軍に勝利することで方面を守った例として、張遼が孫権を合肥に走らせ、郭淮が蜀軍を陽平に拒み、徐晃が関羽を樊口に却けたことを挙げている。
また『蒙求』には「張遼止啼」という標題があり、張遼の武勇は江東にも広く轟いたので、江東の子供が泣き止まない時も「遼来遼来(張遼が来るぞ)[注 3]」と言えば必ず泣き止んだ、という逸話が紹介されている。また『泣く子も黙る』という言葉の由来とも言われる。
張遼wikiより
トピック 孫夫人について


キーワードで政略結婚について触れたが、劉備と孫夫人の結婚について見てみる。
生没年は不詳なのだが、横山三国志においては30くらい歳の離れた結婚となっている。
また呉の人物であるが呉書にも記述はない。
法正伝において人柄が記載されている。
才気、剛勇の点で兄たちの面影があるとしている。
この記載が後々の孫夫人を作り出したのではないか?
この孫夫人の登場のくだりは京劇においても使われているようであり、ここでは孫尚香という名としている。


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