横山光輝 三国志 24 孔明の大論陣
はじめに

本の内容については漫画を読めばいいと思うので、ここでの記事は補足となる、人物や物事を取り上げて漫画を少しでも楽しく読めるようにするのが本記事の目的とします!
よろしくお願いします!



よろしくお願いします!



前回の記事はこちら!


あらすじ
孔明の命をかけた呉訪問
呉の重臣たちとの論戦、魯粛を使いながらの孫権、周瑜の説得。
孔明の末恐ろしい心理戦、舌戦の能力に恐れた周瑜は孔明を暗殺しようと動く。
ここでの周瑜は目先のことに気を取られる。
孔明の舌戦は心理学の素養があるのはわかるが、これは相手を分かっていなければならない。張昭や周瑜、虞翻もちろん魯粛のことも調査済みだったのかもしれない。



個人的には1番三国志の中で輝かしく面白い巻。
キーワード 舌戦 ぜっせん


命をかけて単身 呉に乗り込んだ孔明。
単身にもかかわらず、この赤壁においての孔明は先を読む能力
まるで未来のことがわかってるごとく呉を手のひらで踊らせる。
呉にも名だたる智将がたくさん出てきて、孔明と舌戦を繰り広げることとなる。
有名な「だまらっしゃい!」をおがめるのもこの巻です!
名だたる呉の知将をやぶった孔明の次なる相手は、君主の孫権の説得。
1度彼を怒らせて説得する策。
そして周瑜の説得。
これには奥方の小喬を用いている。
そしてこの赤壁の戦いの最大の人物、ここでは凡人描写が多いが、孔明の味方?!魯粛をもうまくあざむいている。
人の心を読み切った孔明の心理戦が心地良すぎる。


ピックアップ人物伝 周瑜


ここ三国志演義ではまったく孔明の引き立て役にしかなっていない。
そして嫉妬深く、血気に流行り死期を早めている。



かわいそうなので、wikiでの評価を見てみます。
評価
陳寿は「曹公(曹操)は丞相という地位を利し、天子を手元に置き、その威をかりて群雄達の掃討につとめていたが、荊州の城を落とすや、その勢いを借りて東夏(=呉)の地に鉾先を向けてきた。このときにあたり、(呉の朝廷では)意見を申し述べるものたちは、国の前途を危ぶみ、皆確信を失っていた。周瑜と魯粛とは、そうした中で他人の意見に惑わされる事無く明確な見通しさを立て、人々に抜きん出た存在を示したというのは、真に非凡な才能によるのである」と評している。
孫権は陸遜に対して周瑜らを論じた時「公瑾は勇敢で、膽略は人を兼ね、遂に孟徳を破り、荊州を開拓した。邈かにして継ぎ難く、君が今これを継いでいる。」孫権は「王佐の資」と評している[16]。
唐の史館が選んだ中国六十四名将に選ばれている(武廟六十四将)。宋の徽宗の時、平虜伯の爵位を追贈する。
周瑜wikiより
余談だが、映画レッドクリフでの周瑜の奥方、小喬役の人がすごくお綺麗なのを思い出した。
映画レッドクリフとは?
英雄伝『三国志』のエピソード“赤壁の戦い”を中国語映画史上最大の規模で映画化。中国をはじめ、日本、アメリカ、台湾、韓国の合作で製作費100億円を投入、「フェイス/オフ」「M:I-2」などハリウッド映画界でも活躍するジョン・ウーが脚本・監督はもちろん、製作総指揮も兼ねる。周瑜役に「ラスト、コーション」のトニー・レオン、孔明役に「LOVERS」の金城武、孫権役に「ブエノスアイレス」のチャン・チェンなど、俳優陣もアジアを代表するスターたちが集まった。圧倒的なスケールと迫力の戦闘シーンは、「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズのオーファネージ社が担当した。
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トピック 赤壁 長江


前回の記事にもあるが、南船北馬という言葉が物語っている長江
その長江で天下に示す曹操の戦略眼から、この赤壁に陣を構え、呉に対して圧力をかけてゆく。
こう考えると曹操はやはり北において陸戦ばかりで水上戦をやったことのないということから、大軍を用いての圧力戦略に重きをおいていたのではないか?



前回の記事はこちら!↓


赤壁の位置
赤壁の古戦場と伝えられる場所は、長江・漢水沿いに数箇所存在する。その是非については現在も議論があるが、有名なものは以下の2箇所である。
湖北省蒲圻市(1998年に赤壁市へ改称)西南の長江南岸に位置する赤壁山(北緯29度52分31秒 東経113度37分51秒 / 北緯29.875149度 東経113.630928度)。実際の古戦場として現在最も有力視され、「三国赤壁」または「武赤壁」と呼ばれている。
赤壁の戦いwikiより
湖北省黄岡市黄州区西北の長江北岸に位置する赤鼻山(北緯30度26分59秒 東経114度52分00秒 / 北緯30.449741度 東経114.866677度)。北宋の文人である蘇軾(蘇東坡)が名作「赤壁の賦」を書いたことで著名であり、「東坡赤壁」または「文赤壁」と呼ばれる。実際の古戦場ではないことが明らかになっているが、晩唐の詩人杜牧が詩に詠んだことから古戦場と見なされるようになり、蘇軾の作品によって他の比定地より突出して有名になってしまった。但し、杜牧・蘇軾の両者とも、ここが古戦場ではないことを承知の上で作品を書いたらしい[11]。なお、東坡赤壁は長江の流れが変遷したため、現在は長江に面していない。
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