横山光輝 三国志 20 凶馬と玄徳
はじめに
本の内容については漫画を読めばいいと思うので、ここでの記事は補足となる、人物や物事を取り上げて漫画を少しでも楽しく読めるようにするのが本記事の目的とします!
よろしくお願いします!
前回の記事はこちら!↓
https://satoimogunsoblog.com/sangokushi19/424/あらすじ
時は流れた
第二部といったところだろうか?
官途の戦いなど描いていれば、60巻ではすまなかったはず。
劉備軍団は劉表のもとへ世話になる。
新野城を賜る。
蔡瑁に妬まれる。伊籍の助け。
キーワード 荊州と劉表
劉表は若い頃太学で儒学を勉強しており、崇高な声望を得た。党錮の禁において、劉表は清流派の党人の中で「八及」[3]と称されており、熹平5年(176年)に霊帝からの追及を受ける身となった張倹の逃亡を助けた際、自らも追われる身となった。黄巾の乱により党錮の禁が解除された中平元年(184年)に大将軍の何進に招かれ、後に北軍中候に転任した。
霊帝死後に詔勅によって荊州刺史王叡の後任に任じられ、劉表は任地に向かった[4]。 しかし、長江南岸は土豪が割拠していたため、州治である漢寿に赴かず北部の宜城に入り、蔡瑁・蒯越・蒯良らと図って不穏分子を鎮圧し、荊州北部を支配下に治めることに成功した(後に州治を宜城近くの襄陽[5]に移している)。[6]
劉表wikiより
ここから劉表は荊州を統治して、この後荊州を守っていく。
ここから荊州が三国志の表舞台としての地になるが、ここまでは孫権の父、孫堅と劉表との争いがあるが、曹操の南下政策には劉表は袁術の存在や張繍の勢力のおかげで絡まずにいれた。
またこの荊州の最大の都市として襄陽がある。
後漢末に荊州の治所が襄陽に定められて以来、この地の政治的、軍事的な重要度は高まり、三国時代には魏・呉・蜀(蜀漢)の重要な係争地の一つとなり、襄陽の戦いがあった。なお、諸葛亮が当初寓居していたのは、襄陽西北郊外の隆中山である。
wiki襄州区より
ピックアップ人物伝 劉表
ここまで大きく登場することがなかったが、下のwikiの引用によれば、大いなる儒学者なのがうかがえ、どうやら儒学の力でこの荊州の地を納めた感がある。
治績など
劉表は政治に長けており、また戦続きの土地から安全な荊州に逃れてきた人々も相俟って、荊州は急速に発展した。また、その逃れてきた人々の中には名士の存在もあり、荊州には優れた人材が集まった。劉表は学問を奨励し、宋忠や司馬徽などといった学者も育った。
儒学者で党人であった王暢に師事し、劉表自身も若い頃から儒学者として知られ、「八俊」「八交(あるいは八顧)」「八友」の一人に数えられる。評
『三国志』魏書劉表傳陳寿的評論
「劉表は威容は堂々としていて名は世に知れ渡り、江南に割拠した。しかし外面は寛大に見えるが、内面は猜疑心が強く、はかりごとを好みながら決断力に欠けていた。いい人物がいてもこれを用いることが出来ず、いい言葉を聴いてもこれを実行に移すことが出来なかった。長子を廃して庶子を後継に立て、死後に国を失ったことも不幸な出来事とは言えない」
なお、陳寿は袁紹と劉表を似た者と考えていたらしく、上の評をこの2人に対して送っている。曹操や孫権の後継ぎ争いでも、庶子を後継に立てることを諌めるための悪例として、袁紹と劉表はしばしば引き合いに出された。しかし史書に登場する限りで、劉表の子の劉琦・劉琮兄弟は直接兵を交えて争っていないという点で袁紹一族とは異なっている。建安12年(207年)、曹操が遼東に遠征すると、劉備はその留守を狙うよう進言したが、劉表は進言を退け動かなかった[12]。
劉表wikiより
劉表の治世の限界をここ点において感じる。死期が近いのをすでにわかっていたというのもうかがえる。
トピック 水鏡先生 司馬徽とその門下生について
人物伝の劉表の引用
劉表は学問を奨励し宋忠や司馬徽などといった学者も育った。
司馬徽について
号は水鏡
人物鑑定士らしい。荊州に移り住み、龐徳公を兄として仕えた。水鏡の号は龐徳公が名付けたものである。なお諸葛亮を臥龍、龐統を鳳雛と呼んだのも龐徳公であるという。司馬徽は龐統の才能をいち早く見出し、徐庶・向朗・劉廙・尹黙・李仁などを門下生とした。柿沼陽平は、敦煌文書のなかに、司馬徽が後漢時代の「少傅」(皇太子の教育係)であったとの記載があることを発見し、司馬徽はたんなる隠士ではなかった可能性を指摘している[1]。
司馬徽wikiより
横山三国志では登場していないが龐徳公について、
龐徳公
荊州の襄陽に住み、親交があった司馬徽を「水鏡」、諸葛亮を「臥龍」、そして龐統を「鳳雛」と名付けたという。正史『三国志』では、劉備が劉表の客将だった頃に司馬徽を訪ねた際、その弟子の牧童が劉備に話した言葉の中に、龐統の従父としてその名が言及されている。また、子は諸葛亮の姉と結婚しており、諸葛亮とは縁戚関係にあたる。
龐徳公wikiより
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