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横山光輝 三国志 19 呉国の暗雲

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横山光輝 三国志 19 呉国の暗雲

目次

はじめに

本の内容については漫画を読めばいいと思うので、ここでの記事は補足となる、人物や物事を取り上げて漫画を少しでも楽しく読めるようにするのが本記事の目的とします!
よろしくお願いします!

前回の記事はこちら!↓

https://satoimogunsoblog.com/?p=418

あらすじ

劉備 関羽 張飛の再結集、そして趙雲の加入。
孫策暗殺事件

キーワード 孫策の逆上と于吉

曹操は孫策懐柔のため、自分の姪を孫匡に嫁がせ、孫賁の娘を息子の嫁として迎えていた。しかし200年、孫策は曹操の主力が北の袁紹に向かっている隙を狙い、曹操の本拠である許都攻略を計画する[6]。ただし裴松之や孫盛によれば、孫策の本当の標的は許都ではなく、長江・淮水流域で非常に人望が厚くかねてから江南併合の野望を抱いていた陳登だったという。しかし孫策が単騎で外出した日、長江のほとりに潜伏していた許貢の客人3人と遭遇し、孫策は1人を射殺したが、残り2人の放った矢の一本が頬を貫いた。『三国志』討逆伝によれば、一族の陳瑀が揚州に侵攻した件で以前より孫策と対立していた陳登が報復として厳虎や許貢の残党を扇動し孫策の背後を突かせようとし、孫策はそれに怒り陳登討伐に向かったが途上で狩りの最中に許貢の残党に襲われた、とある。

孫策wikiより

正史では陳登がひとつの勢力となっていて、彼の陰謀によって殺された形を呈している。

そして于吉

于吉

江東一帯の農民一揆の首謀者だったという説がある。

呉会(呉郡・会稽一帯)を行き来して精舎(道教徒の集まる教会)を建て、香を焚き道教経典を誦読し、符や神聖な水を用いて病気の治療を行なっていた。呉会の人々には彼を信仰するものが多かった。

正史としてはこうだったが、演義では仙人としてでてくる。

許貢

あまり馴染みのない人物なのだが、これもwikiにたよる。

後漢末に官僚となり、揚州呉郡の都尉、後に呉郡太守を務めた。『三国志』蜀書許靖伝には、彼と旧交があった旨が記載されている。また、曹操の軍師であった周喁が九江太守であった兄の周昂に味方し、袁術に敗れた後、故郷の会稽に帰還して来たため、許貢は彼を処刑している。

建安5年(200年)、『三国志』呉書孫策伝が注に引く『江表伝』によると、許貢は急激に江東へ勢力を拡大した孫策を警戒し、朝廷に対して「孫策は傑出した勇武の持主であり、項羽と似たところがあります。是非とも恩寵を与え、都(当時は許都)に召還しましょう。もし召還せず地方に放ったままにしておくと、必ず禍いを招きます」と上表した。ところがこの上表を孫策配下の官吏(下級官僚)が確保し、孫策に見せた。孫策が許貢と面会し、これを問い質したが、許貢は自らの書いた手紙ではないと否定した。このため孫策は、配下の兵士数人に命じて許貢を絞首刑にした。

ピックアップ人物伝 趙雲

コーエーテクモゲームス 三國志14より

すでに名前からして日本人のわたしらどもでも強いと感じてしまう、おとぎの国の話のような人物

ここでは無骨な感じの見た目だが、コーエーのゲームなどでは、鎧をまとった姿がハンパないイケメンになっている。

趙雲別伝

本伝中の記述がやや簡素なのに比べ、以下の『趙雲別伝』は記述が多く、司馬光も『資治通鑑』を編纂するにあたって趙雲別伝の記述を採用している。

清の史学者何焯は、趙雲が劉備に仕えた時期が本伝と異なること、第一次北伐で降格された趙雲が褒賞を受けたのが不自然であることからその内容を否定し、「趙雲別伝とは趙家の家伝を改編したものではないか」と疑問を呈している[1]。

李光地も、本伝中の趙雲は功績が少ない一方で、別伝中の趙雲は功績が多すぎるとして、その違いに疑問を呈している[2]。

趙雲wikiより

趙雲とはたぶんにフィクション性がつよいということなのだろうか?

トピック 名医華佗の登場

華佗は医術や薬の処方に詳しく、麻酔を最初に発明したとされており、「麻沸散」と呼ばれる麻酔薬を使って腹部切開手術を行なったという。そのため、民衆から「神医」と呼ばれた。また、屠蘇や「五禽戯」[注 3]と呼ばれる体操による健康法(導引)の発明者とも言われている。

華佗wikiより

麻酔の発明はすごすぎます!そして曹操に仕えている。

その評判を聴いた曹操の典医となり、持病であった頭痛や目眩の治療に当たっていた。しかし、華佗は自分が士大夫として待遇されず、医者としてしか見られていないことを残念に思っていた。これは当時の医者の社会的地位が低かったためである。そこで、帰郷の念が募って、医書を取りに行くといって故郷に戻り、その後は妻の病気を理由に二度と曹操の下に戻って来ようとしなかった。曹操は調べた結果、妻の病気が偽りと判明したので、これに怒って華佗を投獄し、荀彧の命乞いも聴かず、拷問の末に殺してしまった。華佗は死ぬ直前に、持っていた1冊の医療書を牢番に与えようとしたが、罰を恐れた牢番が断ると自らの手で焼き捨ててしまった。曹操は名医で頭痛を治せる唯一の人物であった華佗を殺してしまった事、またその事により、庶子ながらその才気煥発な面を愛していた曹沖を治療する事ができず夭折させてしまった事を、後々まで後悔したと言われている。

『三国志』華佗伝や『後漢書』方術伝には、彼の行なった数々の治療や診断の例が記録されている。

華佗wikiより

ここで孫策の負傷を治すのは演義から来ているようだ。

また後々にも関羽を手当てしてるシーンがある。

中国では近代までにおいて、手術は儒教の教えに反するとされたため、西洋の医師により考えが導入されるまで行われなかった。[1]

華佗wikiより

前回のトピックにより挫折した儒教の教えが出てくる。

https://satoimogunsoblog.com/?p=418

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この記事を書いた人

東京都下在住のフリーランス。アコギ初心者練習に余念のない元ベーシストバンドマン。ピアノの音すき。つまりは音楽が好きです。
本業の仕事では、ほぼ毎日運転しつつも十年以上無事故無違反のガチゴールド安全運転者。
禁煙歴2年になります。
当ブログの『さいともブログ』ではイヤホンを中心としたガジェット、はたまた横山光輝「三国志」についてのブログとなっております。

ahamo

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