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横山光輝 三国志 15 玄徳の秘計

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横山光輝 三国志 15 玄徳の秘計

目次

はじめに

内容はあらすじ程度に!
ここでは補足として人物などをピックアップしてあとは漫画の方を楽しく読めますように!
というのがこの記事たちの目的!

あらすじ

献帝に謁見するところまでになった劉備
しかし、そのことで曹操の配下に入れ知恵をいれられ、またしても命の危機がやってくる!

董承 宮廷闘争 馬騰の登場
ここでも曹操の忠臣が登場する。満寵に郭嘉。

キーワード 曹操と献帝

逆に曹操と献帝の関係はどうだったのだろうか?

記述としてはあまり残っていないのだが、やはり曹操は献帝を最大限に利用しているという事実がある。

ひとつの例として曹操は徐州において大虐殺をおこなっていて名声を失っている。
曹操の最大の失政といってもいいこの事件を補うのは献帝の保護しかなかったのではないか。

長安から逃亡、亡命してきた献帝としても、おそらく曹操しかいなかった。

しかしながら権威は表向きだけで利用するしかない曹操の態度に献帝の臣下は不満を持ち、劉備や馬騰を巻き添えに暗殺計画をする。

こう考えると陶謙の配下が行なった曹操の父殺しは大きな影響を与えたことがうかがえる。

ピックアップ人物伝 郭嘉

曹操陣営にはほんとに優れた軍師が何人もいる。逆にこれだけいると話がまとまらないのではないかと危惧するが、しかしながらそれをもまとめられる能力を有しているのが曹操なのだろう。

郭嘉についてみていく。

郭嘉は物事に深く通じていて、的確な見通しを持っていたので、曹操から「わしの真意を理解しているのは奉孝だけだ」と絶大な信頼を寄せられていた。

郭嘉は模範的行動に欠くところがあるとして、陳羣はこれを理由によく郭嘉を弾劾した。しかし郭嘉が全く意に介さず、曹操も郭嘉の才能を愛していたため、彼を重用し続けた。またその一方で、曹操は公正な陳羣の才能も同じく愛した。

陳寿は、郭嘉を程昱・董昭・劉曄・蔣済と並べて、荀攸と同じく謀略に優れた策士だったが、荀攸と違って徳業がなかったと評している。

郭嘉wikiより

一方で演義では

小説『三国志演義』では、荀攸や董昭ら他の軍師たちが正史よりも活躍を減らしている一方で、郭嘉は天才的な洞察力を持つ軍師として描かれており、魏の人物でありながら優遇されている。

郭嘉wikiより

トピック なぜこんなにも戦ができたのか!?

三国時代のwikiに興味深い記述がある。

人口減少
この時代の前後に起きた中国大陸の人口の激減は、後の時代に大きな影響を与えた[13]。

当時の記録を見る限りでは、黄巾の乱から続く一連の戦乱、虐殺、農民の離農、悪天候や疫病などにより、中国大陸の人口は大きくその数を減らしている。例えば、後漢末の桓帝の永寿3年(157年)に5648万[14]を数えた人口が、三国時代には818万人の半ばになっており、およそ7分の1になるまでの減少である[15]。

数値が減った理由として、上述の要因の他に、屯田民は地方官ではなく典農官の管轄であったため郡県の人口統計に上がらなかった、流民が戦乱を避けて流浪中に豪族の私民になり戸籍を外れた、など統計漏れが増えた可能性も指摘されている。しかしそれでも、大陸の統一が崩れてから再統一がなるまでに、それ以前の中国史上の前例である秦末(楚漢の攻防)や前漢末(赤眉・緑林の乱)とは比較できないほど時間を要していることや[16][17]、この時代の少し後に大陸周辺異民族の大規模な集団移住(五胡十六国)が起きていることから、やはり、数値は額面どおりではないにしても、相当程度の人口減少と人口希薄地帯の登場が起こった、とする見方もある[18]。

また、中国において最初の発音記号であるとされる反切が登場したのもこの時期であり、漢民族人口の激減の為、言語・発音の混乱が起こり、その為に、為政上、文化保存上、なんらかの対応処置が必要になったのであろうと分析する説もある[19]。また、地理志などの公式統計以外にも、例えば三国末期や西晋初頭の史書中に見られる各国政府高官(皇甫謐(晋)や陳羣(魏)、朱照日(呉)等)の発言においても、「10分の1になってしまうほどの全国的な人口減少」などといった当該現象を示唆する箇所が複数あり[20]、これらの記述も激減の傍証として使われることが多い[21](ただし、「10分の1」というのは、大幅な戸数の減少を意味する脚色で、実際には規定上郡県の戸籍には掲載されない屯田民の方が戸籍民よりも多く、彼らを含めればそこまでの戸数の減少はなかったとする見方もある[22])。

なお、前漢末に発生した王莽の混乱前における人口数は平帝の元始2年(2年)において5959万余[23]であり、王莽の混乱とその平定後、後漢に入った建武中元2年(57年)は2100万程度[24]で半分以下まで激減、その後持ち直し後漢末にようやく前漢末の水準より少し少ない程度に戻っている。

ともあれ、歴史の流れから黄巾の乱は群雄割拠の争いのおおいなるきっかけになったのは間違いない。

多くの民衆を吸収した太平道は、184年についに反乱を起こす(黄巾の乱)。宦官はこの乱の発生に困惑する。宦官たちには軍の指揮は出来ないので、どうしても豪族たちを起用する必要がある。

三国時代wikiより

ここでは深掘りを控えるが、もともといた宦官は曹操が献帝を擁してからはどうなったのだろうか?呉や蜀漢は宦官をおいたのか?

なぜこれだけ戦争ができたのかという疑問は、上の引用にもあるが、豪族が実権を握ったことによるところが大きい。
中央の宦官やれ文官の権威が小さくなったのもある。

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この記事を書いた人

東京都下在住のフリーランス。アコギ初心者練習に余念のない元ベーシストバンドマン。ピアノの音すき。つまりは音楽が好きです。
本業の仕事では、ほぼ毎日運転しつつも十年以上無事故無違反のガチゴールド安全運転者。
禁煙歴2年になります。
当ブログの『さいともブログ』ではイヤホンを中心としたガジェット、はたまた横山光輝「三国志」についてのブログとなっております。

ahamo

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