横山光輝 三国志 14 呂布の末路
はじめに
内容はあらすじ程度に!
ここでは補足として人物などをピックアップしてあとは漫画の方を楽しく読めますように!
というのがこの記事たちの目的!
前回の記事はこちら!↓
https://satoimogunsoblog.com/sangokushi13/322/あらすじ
徐州をまもるため命懸けの陳珪陳登親子の計略
陳宮の逆上 はじめは曹操に仕えていたがなにがあったのか?
なににせよ、呂布軍は曹操が攻めたことによって、内紛が起こり部下からの信頼を失い。自爆してゆく。
キーワード 呂布の部下
張遼 陳宮 宋憲 魏続 など
呂布は単なる猪武者というイメージが強いが、何気に部下も強い!
その筆頭が張遼で、軍師に陳宮という優秀な能力を持ったのもいる。
しかしながらこの優秀な部下はどこからきたのだろうか?
八健将(はちけんしょう)は、小説『三国志演義』において、呂布配下の武将である張遼、臧覇、郝萌、曹性、成廉、魏続、宋憲、侯成の8人を指す。
八健将の語は第11回に登場する。呂布が軍勢の先頭に立ち、両脇に「八員の健将」が控えていた。そのうち序列第1位が張遼で、序列第2位が臧覇であり、この二人がそれぞれ3人の将を率いていたとする。
八健将wikiより
正史の八健将
史実では、以下の通りに相違点がある。
臧覇:呂布の配下ではなく盟友関係にあった武将。
八健将wikiより
郝萌:『演義』では、建安3年(198年)12月の下邳城籠城戦で処刑されているが、正史では建安1年(196年)6月に呂布に叛旗を翻し、高順に討ち取られている。
曹性:『演義』では、建安3年(198年)に夏侯惇の目を射抜いた後に戦死。正史では郝萌配下の武将。郝萌の叛乱後に郝萌の旧部隊の指揮を委ねられた。
成廉:『演義』では、興平2年(195年)に戦死しているが、正史では建安3年(198年)10月の下邳城外の戦いで曹操軍に捕虜とされている。
高順:呂布の配下として様々な戦功を立てた人物であるが八健将にふくまれていない。
なお「健将」とは、本来は猛将、勇将という意味を持つ語であり、『後漢書』呂布伝で成廉と魏越が、このように表現されている。
この中で3人ほどをプチピックアップ
臧覇
wikiの正史の事蹟によれば、多分に大いにこの三国志世界において活躍した武将である。
彼は丁原配下時代の呂布軍から参戦していたわけではなく、徐州や青州においての武将らしい。
評価
陳寿は、州郡を守り威厳と恩恵を示した人物として、李通・文聘・呂虔と共に臧覇を称えている。
孫盛は、父を助けて孝であり、若い頃から孝烈を称えられたと臧覇を評価し、曹操が方面軍を任せた優れた人物の一人として、文聘と共に名を挙げている。
盧弼は『三国志集解』で、臧覇が任された青・徐の地は、李通が任された淮・汝の地、鍾繇が任された関中の地と並び、決して失うことのできない重要な地方だったと評価している。
臧覇wikiより
宋憲
呂布配下。建安3年(198年)12月、呂布が曹操に攻められ下邳城に追い詰められた時、同僚の魏続・侯成と共謀して呂布を裏切り、曹操軍を城内に招き入れた。このとき呂布軍の陳宮を生け捕りにしている[1]。これにより呂布の勢力は滅亡した。以後、宋憲の記述は史書に見当たらない。
宋憲wikiより
魏続
呂布配下。呂布の縁戚関係にあったことから重用された[1]。呂布が高順を疎んじるようになると、呂布は高順の兵を魏続に率いさせ、魏続の兵を高順に率いさせている。
建安3年(198年)12月、呂布が曹操の猛攻に遭って下邳城に追いつめられると、同僚の宋憲・侯成らと共謀して陳宮を捕縛し[2]、曹操に寝返った。これが契機となって下邳は落城し、呂布軍は滅亡した。
呂布滅亡後、史書に魏続の名は見当たらない。
魏続wikiより
宋憲、魏続に関してあまり内容がないので、最後に呂布軍の重要武将、高順について
高順
高順の人となりは清廉潔白で威厳があり、寡黙で一切酒を飲まず、また贈り物を受け取らなかった。部下は700人だったが、敢えて千人と号し、鎧兜や武具はいずれも精錬されていた。攻撃した敵を必ず打ち破る猛将だったため、高順の部隊は「陥陣営」という異名をとった。
高順は主君たる呂布への忠誠心が厚く、臧覇討伐時の例のように、呂布に対して何度か諫言したという。呂布も高順の武勇や忠誠心は認めていたが、次第に高順を疎んじるようになり、また郝萌の反乱後はその傾向がさらに強まった。呂布は魏続と縁戚関係にあったことから[6]、高順が指揮していた兵を全て奪い取って魏続に与え、戦争が起きてからわざわざ高順に魏続配下の兵を指揮させた。しかし高順は終生恨みを抱かなかったという。
一方、陳宮と仲が悪かった。下邳城攻防戦において、呂布は陳宮と高順に城を固めさせ、自ら兵を率いて曹操の糧道を断とうとしたが、妻から高順と陳宮の不和を指摘され、出撃を断念している。
高順wikiより
ピックアップ人物伝 陳宮
なにかと個人的に不思議な人物に思えてしまうのがこの知謀に長けた陳宮という人物。
はじめは曹操に仕えていたが、彼は呂布の方へ願っている。
そしてかたくなに曹操を嫌っている。
その点をみてみる。
興平元年(194年)、曹操は徐州の陶謙を攻撃すると、陳宮に東郡の守備を委ねた。しかし、曹操軍の大部分が兗州を離れた隙を衝き、陳宮は曹操への叛逆を目論んだ。陳宮は、陳留太守の張邈、その弟の張超、従事中郎の王楷・許汜とともに反乱を計画して、呂布を盟主として迎え入れた。なお張邈の反乱の動機は、曹操が袁紹と同盟して自分を攻撃しようとしているのではないか、という不安だったとされている[4]。陳宮謀叛の動機は史書に「曹操への疑いを抱いた」とあるのみ[5]だが、実は陳宮は袁術派の人間であり、袁紹派の曹操が徐州で行った大虐殺で愛想を尽かした為である。
陳宮wikiより
そして曹操に捕まった時の話
曹操が面前に引き立てられた陳宮に「何故このような事になったのか」と問うと、陳宮は呂布を指して「この男が私の言う事を聞かなかったためにこうなったのだ」と答えた。さらに曹操が「老母や子供はどうするつもりだ」と尋ねると、陳宮は「天下を治める者は人の親を殺したり、妻子を途絶えさせたりしないもの。母の生死は貴公の手中にあり、私にはない」と言った。このため曹操は、涙ながらに刑場に向かう陳宮を見送った。しかし陳宮は振り向かなかったという。こうして呂布・高順らと共に絞殺され、許の市において晒し首にされた。曹操は彼の老母ら家族を引き取って厚遇し、陳宮の娘も嫁ぐまで面倒を看た[4][5]。
陳宮wikiより
⤵︎のトピックにも触れているが、曹操は徐州で大虐殺をおこなっている、というのに愛想をつかす。
今回この陳宮を見るにあたっては知略はあるが打算がない印象を受けた。
しかしながら流れのせいなのか、曹操に対抗するのであれば、袁紹についてもよい印象なのだが、呂布についたのは戦略的には不明に思いました。
最後に
史実上の彼の行動には不明な点が多く、各創作物では知謀に長けた策士という人物像を基調とし、様々な陳宮像が描かれている。
トピック 徐州
ここではwikiによる詳しい解説がなされている。
それを見てみると、曹操がこの地で大虐殺をおこなったことが記されている。
後漢末期、陶謙が揚州とともに支配し割拠するが、彼の死後は曹操・呂布・劉備・袁術らが徐州地方の彭城国や下邳国をめぐり争奪戦を繰り広げた(下邳を参照)。三国時代には魏により徐州が設置されている。また曹操は陶謙の部下に父を殺され徐州で住民の大虐殺を行った。
徐州市wikiより
ここまで見てきて、曹操という人物は能力のある人材は身分にかかわらず大切にするが、やも得ぬ殺傷、逆上の殺傷というのが平気でおこなわれているのがちらほら目立つ。
この件に関しては父を殺されたということでのことだが、身内がやられたことによる復讐というのは、当然のことながら多い。
まとめ
今回ほぼ呂布軍についてふれてきたが、例えで言うなら、コーエーの『三國志』をやっていても呂布軍て意外と戦力そろっているんですよね。
猪武者というのは案外違うやもしれません。
魅力的な強さを持っていたのかもしれません。
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