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横山光輝 三国志 12 南陽の攻防戦

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横山光輝 三国志 12 南陽の攻防戦

目次

はじめに

内容はあらすじ程度に!
ここでは補足として人物などをピックアップしてあとは漫画の方を楽しく読めますように!
というのがこの記事たちの目的!

あらすじ

曹操 呂布 袁術 劉備 孫策の攻防戦

張繍 南陽えん城 胡弓の音にひかれる曹操、そして未亡人に恋をする。
智将 賈詡の登場
その賈詡の謀で典韋を失い、曹操自身も九死に一生をおう。
陳登 陳珪の命をかけた策略。

前回の記事↓

https://satoimogunsoblog.com/sangokushi11/266/

キーワード 陳珪の策略

三国志にはただ戦うだけではない、剛に対しての柔のような、知恵を絞った策略を巡らす場面が魅力でもある。

陳到について

一族から多数の二千石を輩出した徐州を代表する名家に生まれた。孝廉に推挙され、劇県令を勤めたが、官を去り、今度は茂才に推挙された。この後に済北郡太守を務めたという[1]。 『三国志』や『後漢書』によると、190年代頃に豫州沛郡(現在の江蘇省徐州市沛県を中心とする地域)の相であった。

194年に陶謙が亡くなると、子の陳登が孔融とともに劉備に対して徐州剌史になるべく説得した。ある時(195年頃か)、陳珪は揚州を中心に朝廷から半ば独立していた袁術に、文書で配下となるよう求められた。陳珪と袁術は共に漢の大官の子孫であり、若い頃から交遊があった事による勧誘であった。しかし陳珪は、時勢が帝を推戴した曹操によってまとまり始めており、朝廷に仕え続けると答えてこれを拒否した。また、袁術が呂布に縁談を持ちかけた際には、この二人が提携する事で騒乱がさらに深まる事を恐れ、呂布に持ち掛けて破談させた。怒った袁術が張勲に大軍を率いさせ徐州に攻め込ませると、呂布は陳珪に「貴公のために袁術が攻めて来たではないか」と詰問した。しかし陳珪は、巧みな計略で袁術軍を混乱させて破った。その一方で子の陳登を許に遣わし、呂布に左将軍の官位を与えて有頂天にさせるとともに、陳登に呂布を討つよう曹操を唆させた。

『三国志』魏志によると、陳珪の墓は徐州下邳国帰正にあったという。

小説『三国志演義』では、こういった陳珪の活躍を巧みさと老獪さを織り交ぜて膨らませている。ただ、陳珪が心を寄せていたのは曹操ではなく劉備であった、としている事が異なる。

陳珪wikiより

陳登について

小説『三国志演義』では一貫して親劉備の人物として描かれる。陶謙配下の一人として劉備を後継に迎えようと尽力し、以後も父とともに劉備に忠義を尽くし続け、劉備の敵である袁術や呂布を徐州から排除するために策略を巡らす。曹操の任命した車冑の殺害にも協力するが、曹操が劉備らを徐州から駆逐すると降伏している。その後は、華佗の患者の一人として名だけが登場する

陳登wikiより

正史の来歴などを、読んでも結局、曹操についてるのか孫権についてるのか劉備についてるのかよくわからない。

ピックアップ人物伝 賈詡

賈詡についてはwikiによりいろいろ書かれているが、彼の能力は間違いなくすさまじいものを感じる。
その理由として、情勢を見る能力、機略の思いつき、世の渡りかたがある。

元は曹操の敵陣営にいたにもかかわらず、降伏後は曹操のひとりの軍師として能力を発揮して、曹丕の代になってもしっかり存在している。
そして知者は時に妬まれるがそういった話がない。

話は前後するが、赤壁の戦いの直前には曹操に対して、まず占領して間もない荊州の足場を固め、孫権に対し万全の体制を築いてから、降伏を勧めるように献策している。また曹丕(文帝)から蜀漢・呉に対する戦略を問われた時も、「どちらも小国とは言え、蜀の劉備は優れた手腕を持ち、諸葛亮が良く国を治めています。呉の孫権は真偽を見抜く力を持ち、陸遜が情勢の変化をしっかりと押さえています。今ここの群臣を見回しても劉備と孫権に匹敵する者はおりません。今は文を先とし、武を後にすべきです」と、性急な侵攻の不可を説いている。曹操・曹丕はいずれも賈詡の献策に従わず兵を進めたが、勝利を収めることができなかった。しかし裴松之は、曹操の判断が正しく、賈詡の策は誤りだと述べている。

賈詡wikiより

トピック 横山光輝 三国志の女性陣

この物語の魅力は男たちだけではなく、女性陣もたびたび登場し、彩りをあたえている。軽く紹介。

芙蓉姫 

吉川英治三国志に登場する、架空の人物。

何皇后

ここは丸ごと引用する。
理由は宮廷闘争とはこれだ!と言わんばかりな内容だからである。

身長は七尺一寸(約163cm)。生家は屠殺業という下賤の出自だったが、賄賂を用い宦官の伝い手で後宮に入った[1]。後宮に入った後、貴人となった。霊帝の寵愛を受け、男子(少帝弁)を生んだ。気が強かったため、妃嬪たちは皆、彼女を恐れていた。

霊帝の最初の皇后であった宋氏が廃されると、何氏が皇后に立てられた(180年)。

霊帝の寵妃であった王美人が劉協(後の献帝)を生んだ時は激しく嫉妬し、王美人を毒殺した(181年4月)。霊帝が激怒し、何氏は廃されそうになったが、宦官の取りなしにより何とか免れた。同年6月に父に車騎将軍と爵位が追贈され、183年に母にも舞陽君の称号が贈られた。

189年、霊帝の崩御後に少帝弁が即位すると、何氏は摂政皇太后となった。政敵であった姑の董太后[2]との争いに勝ち、董太后を洛陽から追放し、幽殺した。しかし、何氏の政権を支える何進と宦官(十常侍)が争い、何進が袁紹たちと共に十常侍の殺害を計画すると、宦官とも結託していたため、何苗と共に何進の計画に反対した。結果、何進と十常侍が政争で共に滅び、また何苗も何進配下の呉匡によって殺害されてしまい、洛陽に入った董卓が権限を手中にすることになった。

董卓は董太后がたまたま自分と同姓であったため、董太后の報復として何氏を排除しようとした。董卓は何太后を脅迫して少帝の廃位を実行し、董太后が養育していた劉協を帝位に就かせた。さらに董卓は何太后に対し、かつての董太后に対する振る舞いが「孝の道に叛く行いだ」と問責した上で、永安宮に幽閉して、後に子の弘農王劉弁とともに董卓の命令を受けた李儒によって毒殺された。何太后が霊帝の陵に合葬されると、董卓は霊帝の陵の副葬品をことごとく奪い取ったという(『後漢書』董卓伝)。

何皇后wikiより
玄徳夫人 糜夫人 甘夫人

糜夫人が正室で、劉備軍が曹操に敗れて曹操に降る形になった時、いっしょにいた夫人。そして長板橋の戦いの最中、甘夫人の産んだ阿斗を趙雲に託して井戸に身を投げる。これは演義のはなし。
甘夫人は巷では芙蓉姫とも呼ばれている。
その方がロマンはありますね。

孫夫人

糜夫人も甘夫人も失った後の夫人。孫権の妹。

貂蟬

言わずもがなの董卓と呂布を離間した女性。

玄徳の母

横山光輝三国志事典にはこう書かれている。

名をあげずに故郷に帰ってきた玄徳を、母「女々しい」と言って追い返す。しかし玄徳が立ち去った後、一人になった母は泣きくずれるのであった。
子どもべったりの現代日本の母親とは、全く正反対の「強い」母親がここにいる。

とあります。

鄒氏 

この巻において張繍のところへ来た曹操が胡弓の音に惹かれて入り浸る。張済の未亡人。

大喬 小喬

これも言わずもがなの孫策と周瑜の妻であり姉妹。

孫権の母 呉夫人

割愛

呂布の娘 呂布の妻

正室の厳氏との間に一人の娘を儲けた。袁術の子との婚約を交わされたが。また、寿春の袁術の下へ呂布自らが娘を担いで赴くも、途中で劉備軍に矢を射掛けられ引き返すという場面などが付け加えられ脚色されている[注釈 5]。

呂布wikiより

これは横山光輝三国志にも描かれているが、演義での話。

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この記事を書いた人

東京都下在住のフリーランス。アコギ初心者練習に余念のない元ベーシストバンドマン。ピアノの音すき。つまりは音楽が好きです。
本業の仕事では、ほぼ毎日運転しつつも十年以上無事故無違反のガチゴールド安全運転者。
禁煙歴2年になります。
当ブログの『さいともブログ』ではイヤホンを中心としたガジェット、はたまた横山光輝「三国志」についてのブログとなっております。

ahamo

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