三国志 横山光輝 51 姜維の帰順

こんにちは!さいともと申します!
前回は姜維の初登場で孔明を負かしたのと夏侯楙の能力のなさにびっくりした50巻でした!



夏侯楙の能力値にびっくりした前回の記事はこちら!


不退転の決意で北伐に挑む孔明。しかし魏も孔明の北伐に危機感を持って対抗。西羌王国を巻き込んだ戦いが繰り広げられる!
そんな今回の51巻では異民族の西羌王国として登場する羌について
そしてそんな羌族と混血だったとする馬超の弟分的存在、馬岱をピックアップします。
さらには時代は流れ、すっかり蜀の武将も顔ぶれが新しくなってきているので、主に登場する将をまとめてみたいと思います!
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※この記事の主旨について
この横山光輝『三国志』記事はこの漫画(演義)とwikiからの正史を見合わせて思いを馳せて楽しむのが主旨です!
歴史検証や論文的なものではございませんのでご了承ください。
横山三国志や演義での孔明はこんな描かれ方でも、正史ではこんなだった!
的なギャップを楽しめればという内容です。



よろしくお願いします!
あらすじ


姜維そっくりさんの兵士を使い、天水城を攻撃しつつ撤退。
一方で冀城で姜維を孤立させて兵糧攻めにして
蜀の輸送隊をおとりにして冀州を奪い、帰る場所を無くした姜維は孔明の蜀へと降る。
蜀将となった姜維は天水城を矢一本で攻略する。
これで天水・南安・安定の三郡を手に入れる。
次なる戦場は祁山となるが、魏は曹真を総大将に郭淮も参戦してくる。
しかし孔明の前では相手にもならずに、曹真は異民族の西羌を使う。
鉄車隊に苦戦するものの、西羌軍を攻略。
逆に西羌とよしみを交わして兵も将も全て釈放される。



南蛮の時と同じですね!
さらに蜀軍は曹真軍を圧倒し、渭水へ追いやる。
この報を受けた首都洛陽の曹叡は鍾繇の言により、司馬懿をまた呼び寄せる。
南陽の兵を連れて、孔明との決戦に行軍する!


キーワード 西羌王国 おもに羌について


中国史において羌族は氐族とともに最も古くみえる部族の一つとある。
さらに
『三国志』で引用されている魚豢(ぎょかん)の『魏略』においてようやく氐羌についての記述が現れ、『後漢書』において羌族について詳細に記された「西羌伝」が設けられた。
後漢末に黄巾の乱が起きると(184年)羌族は再び勢いを盛り返し、羌族の血を引く馬騰・馬超父子や彼らと結んだ韓遂といった漢民族の軍閥と組んで独自の勢力を築いた。三国時代(220年 – 280年)においては、魏と蜀の国境地帯において勢力を保ち、その趨勢に応じて魏や蜀に附いて戦った。
羌 wikiより



こういったところにも黄巾の乱の影響はあるんですね!
このwikiからもわかるように演義といえどもしっかり羌を登場させて戦いが描かれている。
さらにはタングートの流れを汲み、西夏を建国するがチンギスハーンにより滅ぼされる。
また民族として存在するもの主導的政治活動はなく現在に至っているとある。
さらにタングート・西夏とくると井上靖著の『敦煌』を思い出す。





小説として色褪せないおもしろさがあります!
横山三国志の内容としては
欧州 トルコ エジプトとも交流し、その影響を大きく受け戦車を駆使して弓槍も優れていたとしている。
ピックアップ人物伝 馬岱


孔明が南蛮行から凱旋した直後に異民族や北に睨みを効かせていた馬超が病死すると、馬岱は馬超からこの後の馬氏を任されている。
しかしながら馬岱の記述は少ないようで
孔明の死後の退却において魏延を斬る役目を負ったのは演義でも正史でも描写は違えど同じようである。



横山三国志ではよき忠臣として描かれていますね!
トピック 北伐に参加した主な蜀将
趙雲 魏延
先に紹介した馬岱をはじめ、趙雲や魏延、関興や張苞などの活躍が描かれていますが、他の主な将についてもまとめてみたいと思います!
張嶷


演義や横山三国志ではあまり目立った活躍はみられないのだが、正史では多いに活躍した武将としている。
馬忠の副将として多いに活躍して西南夷や羌族を討伐。
また反乱に対しても活躍。
孔明の死後も南中に駐屯して反乱と戦い阻止する。
その後も軍事・行政面において大いに功績を立て昇進を続け、盪寇将軍に任じられ、関内侯を賜った。異民族の統治に尽力し、彼らから大いに慕われた。張嶷が中央へ召還されることになった際には、異民族の民は車にすがり涙を流して悲しみ、また百余人もの部族の王が張嶷に従って蜀へ朝貢した[12]。
張嶷 wikiより
また重病がありながらも姜維の北伐にも参加。
活躍を見せたがあえなく戦死する。
また、最後の戦役の出立に際して、張嶷は劉禅に対し「臣は陛下の恩寵を受けながら、病によっていつ死ぬかわからぬ身となってしまいました。急に世を去りでもして、ご厚恩に背きはしないかといつも恐れておりましたが、今日こうして願いが叶い、出陣する機会を得ました。仮に涼州を平定したならば、臣は外にあって逆賊を防ぐ守将となりましょう。しかしながら、もし不運にも勝利を得られなかったならば、わが命を捧げ国家のご恩に報いる所存であります」と別れの言葉を述べている。劉禅はその言葉に感動し、彼のために涙を流したという。
張嶷 wikiより
その死は多くの人々に惜しまれ、廟を建てて祀られた。張嶷の孫の張奕は西晋に仕え、梁州刺史となった。



また誠の侍を見た気がします。
しかもこれは演義で作られたわけではなく正史からみる張嶷です。



こういったところが三国志の面白さでもありますね!



今回、馬岱をピックアップしましたが、張嶷についてじっくり触れたかった!
王平


横山三国志においては不恰好な職業軍人的な描かれ方ではあるが、最初は張魯、曹操に帰順した位も与えられていたが、定軍山の戦いの際に劉備に降る。
孔明の北伐にも大いに従軍して戦功をたてるが街亭の戦いでは馬謖の先鋒隊となり、馬謖の戦術の布陣に諌めたが聞き入られなかった。
結果として大敗を喫したが全滅を免れる戦いを王平はすることとなる。
この戦いでは王平のみが出世することとなり、馬謖は処刑される。
231年の祁山の戦いでも活躍。張郃軍を撃退している。
234年、孔明が五丈原で陣没した後、魏延、楊儀の争いが勃発するが、王平はこれを魏延の兵士たちに向かって一括する。
「公(諸葛亮)が亡くなり、その身もまだ冷たくならぬ内に、お前達はなぜこのような事をしようとするのか」
これにより魏延から兵士たちが逃げるとなんなく魏延を討ち取る。



今回、馬岱をピックアップしましたが、王平についてじっくり触れたかった!



それさっきもいいましたよね!
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張翼


劉備が益州を平定すると県令や太守として歴任された。
劉備の漢中攻めにおいては趙雲の指揮下で戦う。
231年の南中方面を鎮守するが、法に厳格なため異民族の反感を買う。
後任の馬忠が赴任するまで前線に留まり兵糧軍備を整え、後に馬忠が反乱を平定。
孔明死後は姜維の北伐に反対ながらも常に参加。
蜀滅亡後、鍾会のクーデターに巻き込まれて殺害される。
高翔


こちらはあまり記述がないが、最終的に大将軍となっている。
馬忠


呉にも同名の武将がいますが、その呉との夷陵の戦いからの救援により劉備に見出され、
黄権を失ったが狐篤(馬忠)を得た
と語る。
活躍は先の張嶷、王平、張翼たちと同等かそれ以上に働く。
馬忠は人となり寛大で公正、度量があり、戯言に大笑するが怒りは顔に出さなかった。決断力に富み、恩威を並び施したため、任地の異民族から畏敬された。馬忠が亡くなると彼らは涙を流して哀しみ、廟を立てて祭った。庲降都督は張表・閻宇が後任となったが、風格や功績の点ではいずれも馬忠には及ばなかったという。
馬忠 wikiより
呉班


族兄の呉懿一家と共に同行。
劉備とも縁戚関係となる。
しかしながら蜀書に独立の呉班の伝はない。
孔明の死後も昇進を重ねたとあるが、年齢が不詳すぎるきらいがある。
廖化


関羽の主簿(帳簿をつかさどる人)として仕える。
呂蒙に敗れると呉に属するも自分が死んだと噂を流して母と脱走する。
のちに孔明の参軍となる。
孔明の死後、彼もまた活躍。
蜀漢の滅亡まで生き、洛陽に連行される途上で病死する。



周倉は架空の人物でしたが、関羽の部下として蜀漢の最後まで生きた、生き証人のような存在です!


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