三国志 横山光輝 57 祁山の戦い

こんにちわ!さいともと申します。
前回では孔明と司馬懿の直接対決が大規模になり、すっかり劉備、曹操亡き後、懸命に大義を全うしようと魏と蜀漢が戦い、孔明と司馬懿はその中心にいる。



まさに忠臣!
今回は李厳の罪にともなう蜀の食料兵糧事情とそれにともなって孔明の後継者、蒋琬について!
さらにはここから避けては通れない名門の司馬一族の司馬師 司馬昭 司馬炎について見ていきます!
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※この記事の主旨について
この横山光輝『三国志』記事はこの漫画(演義)とwikiからの正史を見合わせて思いを馳せて楽しむのが主旨です!
歴史検証や論文的なものではございませんのでご了承ください。
横山三国志や演義での孔明はこんな描かれ方でも、正史ではこんなだった!
的なギャップを楽しめればという内容です。



よろしくお願いします!
あらすじ
孔明 仲達
魏の侵攻に孔明は先にあらためた法、兵の交代制をしっかり全うしようと命令するが、魏軍が攻め寄せてきてもこの法をなんとしても守ろうとする孔明を粋に感じた兵士たちは残って蜀のために戦うと言及。
結束した蜀軍は強く、魏軍を蹴散らす。
しかしここで問題が起き、李厳からの手紙を受けて孔明は撤退する。
決死の撤退戦ではあったが、長年の敵張郃を討ち取り撤退を見事なまでに完了させる。
成都へ帰った孔明はこの李厳の手紙が嘘だとわかると平民へ格下げ、ひとまず北伐はあきらめ内政に従事することとなる。
3年にわたる内政により、国力が充実してきたのを機に孔明は再び北伐を開始する。
この北伐に呼応してもらうべく孔明は費禕を使者に呉へ使いを出す。
蜀は武では魏延、内政面では楊儀というのを孫権は人材のなさを見抜かれてしまっている。
かくして孔明と司馬懿の直接対決がまたはじまる!


キーワード 李厳の罪からくる食料事情


李厳については34巻の蜀の人材についておおむね触れましたが、北伐の戦場に兵糧輸送を担当していたのが李厳でした。
さらに56巻では苟安(演義のみの架空の人物)という人物が李厳の家来として輸送を運んできているが、酒におぼれ輸送に遅れて孔明に斬首されかける描写がある。




また北伐を正史から見るとほぼすべて兵糧不足に陥り孔明率いる蜀軍は戦術面では勝利しつつも撤退を余儀なくされている。
これは蜀の食料自給率の効率の悪さからなのか、はたまた蜀漢の山河による厳しい道路網流通によるものなのか?
おそらく両方なのだろうが、李厳が最終的に投げ出した形になり、虚偽の報告をおこなったのも輸送にそれだけ苦労していたのがうかがえる。
その逆、魏においてはそのような話は皆無となっている。



しかしながらここではこの時代の兵糧事情を見てみます。
中国では、兵糧を干粮という。
漢王朝以前や中国北部では、米や小麦に比べて保存が効きやすい黍(キビ)が重宝され、塩・野菜の漬物・発酵漬けされた魚(英語版)・豆から作った調味料などが加えられた粥(小米粥)として供された。漢王朝以後は、種無しパンが食べられるようになり、そのままだと硬いため、茶やスープと共に食べられるようになった。中国南部では、黍を食べる習慣が無かったので、干飯が食べられた。
兵糧 wikiより
主食以外は悲惨で、味噌と漬物、豆を粉にしたものを茹で乾燥させ固めた物で、新鮮な肉や野菜が無かった。もし村から耕作用の牛を取ってきて食べようとした場合は死罪であった。そのため、肉を手に入れるには、敵や味方であった人間を調理する必要があった。



なんかこわいこと書いてありますね
キビとは
イネ科の一年草で、穀物の一種。日本では五穀の一つとされる。
さらに
実をそのまま炊いて粥にして食用にしたり、粉にして餅や団子などにしたりする。キビは米と一緒に1、2割の割合で混ぜて炊飯されたりもされ、米飯よりも甘みと少しのほろ苦みが加わる[5]。古代中国の草本書『食物本草』によれば、「味は甘く性質は温で毒はない。気を益し、脾臓や胃の働きを助ける作用がある。」とある[5]。キビの独特の甘みは、人によって「しつこい味」と評される場合があるが、豆類と一緒に炊き込むと豆の旨味を引き出して「おいしい」に評価が変わるともいわれており、相性の良い食材と一緒に調理されることでおいしく食べられる[5]。
炊きたてのモチ黍をすり鉢に入れてついたものは黄色い餅になり、それを丸めると黍団子となる[5]。岡山県の吉備団子も、元々は黍団子の一種で、その名の通り黍粉を原料としていた。吉備と黍(キビ)の語呂合わせから吉備団子と書かれるようになった。現在では、黍粉を使わずに白玉粉などで作られることも多い。桃太郎伝説に登場するキビダンゴは黍で作られた団子であり、江戸時代末期になって登場した吉備団子ではない。


干し飯



究極の保存食!?干し飯を備えれば災害時も安心!
また華北の食事情について知りたければ『斉民要術』という532年から549年頃に中国北魏の賈思勰(かしきょう)が著した華北の農業・牧畜・衣食住技術に関する総合的農書。92編、全10巻にくわしく書かれている。
斉民要術 現存する最古の料理





こういった本を図書館なので借りて読むのもありですね!
ピックアップ人物伝 孔明の後継者 蒋琬


コーエーテクモゲームス 三國志11 より
孔明の後継者として名高い蒋琬ではあるが、あまり存在感が今ひとつ薄い。



というのが私の見立て。
劉備が荊州にいた頃に仕官したことからおそらくは孔明一派の名士というのがうかがえる。
そう思う理由として劉備に県長の時、仕事を放置して泥酔して処罰されそうになるが孔明に助けられた話がある。
そして目立った活躍が記されてないのにもかかわらず、孔明の後継者として扱われている。
つねにご意見番として孔明に認められていた所以なのだろうか?
234年 孔明が陣没するとその後、蒋琬は尚書令となり、しばらくして大将軍となる。さらに漢中にて屯田を行い大将軍府を開府。
239年に大司馬に昇進。
これで軍事・中央政治行政・地方行政の最高位に立ち孔明における丞相の職権をほぼ全て掌握する。
243年 自らの病気もあり、姜維を涼州勅史とし北方に当たらせ費禕を大将軍・録尚書事の職へついてもらい、自身は涪に駐屯して上庸を攻撃する計画を立てるも病気の悪化や反対意見もあり断念。
246年 病気が重くなり死去。
またここでは意外にも蒋琬からでたといわれる四字熟語の由来が出ている。
楊戯が蔣琬との議論の途中で返事に詰まってしまう事があった。その時、楊戯を快く思わない者が失脚させようと「楊戯は蒋琬殿と議論をしていると言うのに返事をせぬとは無礼ではありませぬか」と指摘した。すると蔣琬は「人は顔の造りが違うように考え方も人によって違う。彼は自分の考えを曲げてまで私の意見に合わせる事はしないが、かと言って否定すれば公に私を批判する事になってしまうからあえて返事をしなかったのだ。これは彼の長所である」と弁護した(この出来事が『十人十色』の由来とされる)。
蒋琬 wikiより
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トピック 司馬一族


コーエーテクモゲームス 三國志14 公式より
司馬というのは元々軍事を司る官職のことであるとしている。
余談はさておき、司馬一族のことである。
後漢末期においては曹氏に勝る名門としていたとある。



名門といえば、荀彧や荀攸の荀氏もそうですね!
司馬懿については先の記事で触れましたが、この後、曹一族に代わり、司馬一族が魏の中心となっていきますが、このことについては60巻のトピックで触れたいと思います。





ここでは大まかに司馬懿の息子、司馬師 司馬昭について
さらには晋の初代皇帝、司馬昭の息子、司馬炎について触れてみます!
司馬師


コーエーテクモゲームス 真三國無双8 公式より
司馬懿の描かれ方はあまりイケメンとしては描かれておらず、横山光輝『三国志』ではやや中途半端な風貌で、鎧をまとわず軍師的な容貌になる。
ドラマなどで見る司馬懿は老将軍のような出立ちになっている。
実際は軍師ではなくつねに戦地に赴いていることから将軍といったイメージになる。極論だがローマ帝国のカエサルといった方がいいのではないか?


また前置きが長くなったが、司馬師は上品で立派な容姿の持ち主、つまりはイケメン!
それでいて沈着冷静で先見の明があったとする。
父の司馬懿とともに曹爽に対するクーデターを決行。
この一連のクーデターを高平陵の変という。
司馬懿の死後は大将軍となり魏の全権を掌握。
呉との戦いの後、魏皇帝曹芳らにより司馬師を排除しようとするも失敗。
これにより司馬師は廃位を計画。
郭太后と争うも曹髦を4代目皇帝とする。
毌丘倹の反乱を抑えるもその7日後に48歳で死去。


司馬昭


コーエーテクモゲームス 真三國無双8 公式より
次に司馬昭
司馬師が後継の男子を得ず亡くなったため、家督を継承。
魏においても兄の権限を全て継承。
これにより諸葛誕の反乱が起きるも鎮圧。
さらには皇帝曹髦が司馬氏打倒して挙兵。しかしわずかな手勢により刺殺。
しかし皇帝を弑逆(しいぎゃく)した成済は一族皆処刑される。
そして新たな皇帝、曹奐が即位。
262年には蜀漢を討伐して滅亡。
264年 晋王の爵位を授かる。
265年に死去。
評価
兄の司馬師と共に数多くの陰謀・政争を主導し、魏を簒奪する足場を固めたことから、陰謀家として非難されることが多い。また、司馬昭の側も批判に敏感に反応し、曹氏による反撃を警戒していた。竹林の七賢の一人である嵆康が殺害されたのも、彼の夫人が武帝曹操の曾孫に当たっていたことを警戒してのこととされる。さらに皇帝曹髦の殺害にも実質的に関わった。
その一方で、簒奪を成功させた理由についても分析されている。諸葛誕らの反乱を鎮圧した事後処理で、首謀者を処刑しただけで他は全て赦免した。また、呉より派遣された諸葛誕の援軍で捕虜となった者もみな赦免した。習鑿歯は「これ以降、天下の人は(司馬昭の)武威を恐れると同時に徳義を慕うことになった」と評価している。
司馬昭 wikiより
簒奪も一歩間違えばやられてしまうことからこのような闘争はお互い命がけの闘争だったと思いを馳せますが、つねに三国志の歴史、というより人類の歴史というのは権力闘争か領土争いとなっているのが興味深さをおぼえます。


司馬炎


司馬昭が没すると、晋王・相国の位を継いだ[1]。同年12月には、賈充・裴秀・王沈・羊祜・荀勗・石苞・陳騫らと計って、元帝(曹奐)に禅譲を迫って皇帝の位を奪い、新王朝を「晋」と名付る。
司馬炎 wikiより
皇帝となった司馬炎は前王朝の魏と異なり皇族にしっかり土地と兵力を与え重んじる。
重臣の教育と名望家を集めて人材に重きを置き、民衆に対しても民心を得る行動をとる。
さらには曹植の子や諸葛亮の子孫を登用するなどこれまでの王朝にはみられなかった改革が目につく。
279年 呉の討伐に成功。中国を統一
統一後、司馬炎は堕落して国家力は弱まる。
軍隊の縮小
女色にふける(後宮に1万人の宮女を収容)
異民族問題に無頓着
後継問題に同母弟で優秀だった斉王司馬攸の後継を拒否して徹底的に粛清した。
284年以降の天災により人心が荒廃。
晩年には政治の実権が皇后の父に掌握されて外戚専権となる。
そして290年に崩御。
皇帝になり実権を握ってからは前王朝の悪い慣習を改革して晋国の基盤をよくしていったが、呉を討伐すると堕落。
統一国家の基盤形成を怠り短命な王朝の原因となる。
結局ここまで三国志を見てきて感じることはどこかのゲームの言葉ではありますが
人は過ちを繰り返す。





最後まで読んでいただきありがとうございました。
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