三国志 横山光輝 44 蜀呉の死闘
はじめに

本の内容については漫画を読めばいいと思うので、ここでの記事は補足となる、人物や物事を取り上げて漫画を少しでも楽しく読めるようにするのが本記事の目的とします!
よろしくお願いします!



よろしくお願いします!



前回の記事はこちら!


あらすじ


張飛・黄忠を失うも劉備は呉に快進撃を続け関興・張苞も仇をとって行く。
しかし孫権は呂蒙が認めていた人物、陸遜を大都督に任じる決定を出す。
この人選が功を奏し、陸遜は味方を信頼させ戦は逆転していく。
負けを察した孔明は劉備軍が白帝城へ退却するよう手筈を馬良に委ね、この不毛な戦いは終わる。



主君はわたしが守る!
しかしここへきて魏がつけ入り
呉へと侵攻する。
キーワード 夷陵の戦い


222年に蜀漢帝国が呉に対しておこなった戦い。
蜀の総大将は劉備
今回、丞相職についた孔明は連れて行っていない。
そして片腕の張飛は部下に寝首をかられて戦前に亡くなる。
対する呉の対都督は陸遜 詳しくは下記【ピックアップ人物伝】を参照
劉備の侵攻理由は演義と同じで関羽の弔い合戦となる。
孫権は諸葛瑾に和議を申し立てするが、断固として拒否している。
当初は大都督になって間もなく、部下の信頼を勝ち得ていない陸遜に従わない面もあり、劉備が本隊を指揮して優勢となる。
夷陵の戦い 参加武将
蜀漢 | 呉 |
---|---|
劉備(蜀漢初代皇帝) | 陸遜(大都督) |
張飛(出征前に部下の張達・范彊に殺される) | 朱然 |
呉班 | 潘璋 |
馮習(戦死) | 宋謙 |
張南(戦死) | 韓当 |
傅彤(戦死) | 徐盛 |
輔匡 | 鮮于丹 |
趙融 | 孫桓 |
廖化 | 李異 |
向寵 | 駱統 |
陳到 | 謝旌 |
陳式 | 劉阿 |
李朝 | 蔣壱 |
程畿(戦死) | 丁奉 |
馬良(戦死) | 歩騭(武陵蛮を鎮圧) |
沙摩柯(戦死) | 潘濬(武陵蛮を鎮圧) |
王甫(戦死) | |
黄権(魏に投降) | |
龐林(魏に投降) | |
杜路(呉に投降) | |
劉寧(呉に投降) | |
趙雲(江州に駐屯し、永安を後援) | |
馬忠(永安を後援) |
劉備 陸遜
222年 劉備は優勢の中さらに兵を進めるが、黄権が撤退が困難になることを指摘。
しかし劉備は長江北岸の戦線を黄権に任せて夷道まで進み孫桓を包囲。
陸遜は孫桓の救援要請を策があるからと拒否。
陸遜は味方をあざむくかのように危機的な状況まできていた。
また蜀軍の陣地を攻撃するも攻略できず、ますます陸遜への批判が広がる。
しかしここで陸遜は蜀軍の陣が火計に弱いと見破り、夜半に水上を急行して総攻撃を開始。火計により40以上の陣を陥落。
この戦況から一気に蜀軍は劣勢になり、四方から攻撃を受けて潰走。
退路を断たれたことにより、多数の文官が戦死、黄権も魏に降伏。
劉備は趙雲らに助けられて白帝城に逃げ込む。
これにより蜀漢は荊州を完全に失う。
そして陸遜が英雄となる。
しかし深追いはせず益州の追撃はしなかった。
魏は呉への援軍と称して南下を開始。
魏が呉へ人質を要求して拒否すると三方向から呉に攻め込む。



戦が戦を呼ぶ連鎖反応が続いておるな!
ピックアップ人物伝 陸遜





三国志新時代において 蜀は孔明 魏は司馬懿 呉は陸遜といった具合でしょうか?



横山三国志では太ったサラリーマン課長のような風貌なんですが



Koeiのゲームになると一気にイケメンになる!


呉には周瑜 魯粛 呂蒙と智将が次々と登場して、最後にこの陸遜が登場するというのが演義のはたまた横山三国志の呉の大きな見方ではないでしょうか?
夷陵の戦い以前
陸遜の陸氏は四姓と呼ばれる有力豪族
若き日は当時、袁術の配下だった孫策の攻撃を受けて陸績を連れて蘆江から呉県で生活
叔父の陸績より年長だったため、家政を握る。


203年 孫権が孫策の後を継ぐと仕え、文官となる。
後、海昌の統治を行うも旱魃(かんばつ)となり民は困窮するも、陸遜の善政により民の生活を支える。
陸遜はあちこちで不服兵の討伐に成功し、数々の兵士を募った。
これらの功により孫権に気に入られて孫策の娘を娶らせたなど徴用される。


217年には孫権は陸遜に政治の意見も求めるようになる。
山越を討伐し、それを通じて精鋭の兵士を増やすことを主張。
孫権は陸遜に会稽・鄱陽・丹陽の3郡を統治させ、不服兵を打ち破り、この3つの地で募兵を行い精兵を数万得る。
219年 荊州において関羽と対峙していた呂蒙は建業に帰路の途中、対談。
関羽を打倒して荊州を手に入れる謀を練ることを勧める。


呂蒙は関羽に対して名が知られていない事で油断させる策がとられ、陸遜を偏将軍・右部督に拝して呂蒙と交代する。
陸遜は謙った態度の手紙を関羽へ送り軍功を称え、関羽を完全に油断させて呉に対する備えを完全に怠る。
この状況下を作り出した結果、孫権は関羽討伐を決断。
呂蒙とともに荊州を攻略する。
夷陵の戦い以後
223年 陸遜は丞相の孫邵や群臣とともに孫権へ帝位に即くよう進言。
蜀では孔明が丞相となり政権を握ると国交が回復。以後孔明との手紙のやりとりは常に陸遜が見て行う。
228年 曹休と石亭に誘い込み、曹休討伐の指揮を執る。陸遜はこの戦いにも勝利し、曹休は敗北から悪性の腫瘍を患いまもなく死亡する。


229年 孫権が呉皇帝即位に伴い、上大将軍・右都護となる。
また孫権の信任厚いことから、皇子・公子たちの教育係にもなる。
234年 孫権は自ら合肥に出兵、陸遜・諸葛瑾は襄陽を攻撃。陸遜は腹心に戦況報告させたが、途中で捕虜となり諸葛瑾が機密が漏れてしまったと動揺。しかしここでも陸遜は状況を冷静に分析して撤退する。
244年 顧雍の後を継いで丞相となる。


後継問題で全琮と対立。


孫和廃位の声が強くなる中、陸遜は孫権を直接説得しようとするも逆に譴責の書状を何度も送り陸遜を憤死させる。





これだけ呉に孫権に尽くして働いて救ってきたのに悲しい結末です。
二宮の変


二宮事件(にきゅうじけん)、二宮の変(にきゅうのへん)、または南魯党争(なんろとうそう)[1]は、三国時代の呉における約10年間に及ぶ政治闘争の総称。孫和と孫覇の太子廃立争いであるが、その裏に江南の貴族社会的性質を見出す向きもある。両者の父親であり、呉の皇帝であった孫権が問題の解決を先延ばしにしていたことがこの事件の一般的な原因とされる。
二宮事件 wikiより
総評
『三国志』は主君を除いて諸葛亮と陸遜のみが一巻をもって単独で伝を立てられている。撰者の陳寿は、「劉備は、広く天下に英雄として名があり、当時の人々は皆彼を畏れはばかっていた。 陸遜は、ちょうど壮年に達したばかりで、その威名もまだ人々に知られてはいなかったのであるが、(その彼が劉備の)鉾先を打ちくじいて勝利を収め、全て計略どおりに事が運んだ。私は、陸遜の計りごとの巧みさを高く評価すると同時に、孫権がよく人の才能を見抜いて、 その人物が大きな事業を成し遂げられるよう取り計らってやった事にも感嘆する。陸遜は忠誠を尽し、国を憂いて身を亡ぼすことになったのだが、ほぼ社稷の臣といえるだろう」と評している。
陸遜 wikiより
二宮の変でも触れていますが、江南の貴族社会的性質を見出す向きもあるとありますが、これだけの働きをしておきながら、また孫権の信用も得ていながら、どことなく他の政治家との兼ね合いを感じないのはなにか不思議な位置にいるように感じます。



これだけ呉を救ってきた陸遜ですが、国のナンバー2になってもおかしくないのになにか違和感を感じます。



それだけ呉の忠臣だったということでしょうか?
トピック 関羽の子 張飛の子
関羽 張飛



劉備の子 劉禅はさておき、関羽と張飛の子はよき武将として描かれていますが、正史の評価はいかがなものか見ていきます!
関平


『三国志』では、220年に関羽の軍勢が荊州において、曹操軍の曹仁・孫権軍の呂蒙らの軍と戦った時に随行し、孫権軍に捕縛され関羽と共に首を討たれたことが、「関羽伝」に記載されているのみである。
各地を転戦する傭兵団は家族を持つ事が頭領以外は極めて困難であり、その傭兵団たる劉備軍が初めて一所に長く収まったのが荊州時代(201~208)である。関平の記述が殆ど無いのは、樊城攻略が彼の初陣だった為であろう。
後述する小説『三国志演義』では関羽の養子として登場するが、『三国志』ではそういった記述はなく実子であるとされている。
関平 wikiより


関興


正史では、関羽伝にて僅かに触れられている。そこでは、関羽が死ぬとその跡を継いだこと、そして諸葛亮からも将来を嘱望された人物であり、馬良の死(222年)後に20歳で侍中・中監軍に任じられる異例の大抜擢を受けた(223年?)が、数年後に没した事が記されているのみである。
関興 wikiより


関索


『花関索伝』『三国志演義』等に登場する架空の人物。関羽と胡金定[1]の子。民間伝承では字は維之[2]。
架空の人物ながら、南蛮征伐の行進路には、関索が馬に水を飲ませた池や、行軍中に槍で掘った泉等、関索の名前が地名になっている所があったとされる。京劇などでは、関索が人気を博している。小説『水滸伝』の登場人物である楊雄のあだ名は「病関索」(ここでの病とは「黄色い顔をした」という意味)であり、宋・元の史書での盗賊・軍人にも「関索」のあだ名が多くみられる。
関索 wikiより





これは意外!架空の人物だったなんて!
張苞


張 苞(ちょう ほう、生没年不詳)は、中国後漢末期の人物。字は不詳。父は張飛。弟は張紹。妹は敬哀皇后張氏・張皇后。子は張遵。『三国志』には、父に先んじて死去したため弟が跡を継いだとのみある。
張苞 wikiより





真三國無双 イケメンすぎる!
張紹


兄が若くして亡くなり、その子の張遵も幼少であったため、父の死後にその後を継いだ。劉禅の外戚であり、侍中・尚書僕射に昇進した。
蜀の滅亡後、張紹は譙周・鄧良(鄧芝の子)と共に印璽を携える使者となった(「後主伝」)。 劉禅が洛陽に護送されると随行し、魏から列侯に封じられた(「後主伝」)。
小説『三国志演義』にも登場し、その叙述は正史とほぼ同様である。
張紹 wikiより
ここまで関羽 張飛の子をみて、演義による脚色が多い理由として、夷陵の戦いにおいて劉備軍にとって少しでも関羽と張飛の弔いになるようにと描いているのが見てとれます。
関羽と張飛の子が立派になっており、これからの蜀の未来をよきものに感じさせてくれる。



これも当時の儒教の孝とか忠からくる展開なのかな?
コメント