三国志 横山光輝 43 蜀の明暗
はじめに

本の内容については漫画を読めばいいと思うので、ここでの記事は補足となる、人物や物事を取り上げて漫画を少しでも楽しく読めるようにするのが本記事の目的とします!
よろしくお願いします!



よろしくお願いします!



前回の記事はこちら!


あらすじ


関羽亡き後、蜀は弔い合戦もできぬままもやもやして疑心暗鬼状態になる。
その矛先として上庸から援軍を出さなかった孟達と劉封が挙げられる。
親友の彭義の処刑により、身の危険を感じた孟達は魏へと奔る。
劉封は劉備の命令により、襄陽へ向けて戦いを挑むが惨敗し、さらに上庸も獲られ、罪により処刑される。
曹操の後を継いだ魏王曹丕は着々と皇帝の座を取るべく動く。
そして195年続いた後漢はここに歴史を終える。
さらにこの報を聞いた蜀では、うまい!?タイミングで玉璽を見つけて、劉備が初代の蜀漢皇帝となる。
そして赤壁以後、戦に勝つことを覚えた劉備はどうしてもやりたいこと、関羽の弔い合戦のため呉討伐に向かう。



わたしは何も言えませんでした!😢



張飛さん・・・


キーワード 禅譲


仏教用語のようなこの言葉
わたしは世界史を習ったときに覚えました!



禅譲によって国を奪った歴史をピックアップします!



ところで禅譲とは!?
禅譲(ぜんじょう)は、君主(ほとんどの場合、皇帝)が、その地位を血縁者でない有徳の人物に譲ることである。実際には、歴史上禅譲と称していても譲られる側が強制して行われていることが多い。
また、天子に限らず、比喩的に地位を平和裏に譲ることを禅譲、無理やり奪うことを簒奪と呼ぶことがある。
禅譲 wikiより
また
文献が書かれたその時々の権力への正当性の付与や、儒家の思想の根幹たる「礼」を成立させるためにこのような理想化が行われたと考えられる。
禅譲 wikiより
今回の曹丕による禅譲はまさしく、正当性の付与が施されてるのが分かります。
そして何より儒教の礼がからんでるのが興味深いですね。


禅譲した王朝 | 禅譲によって成立した新王朝 |
---|---|
前漢 | 新 |
後漢 | 魏 ⇒西晋 |
東晋 | 宋 (南朝) ⇒斉 (南朝) ⇒梁 (南朝) ⇒陳 (南朝) |
東魏 | 北斉 |
西魏 | 北周 ⇒隋 ⇒唐 ⇒後梁 |
呉 (十国) | 南唐 |
後漢 (五代) | 後周 ⇒ 北宋 |
また、新皇帝の即位が存在しない事例も含めると、中華民国は形式上は清の宣統帝より禅譲を受けた政権とし、これが最後の禅譲となる。
ちなみに朝鮮やベトナムも王朝の禅譲が存在している。
が、ヨーロッパでもありそうだが、ないんですよね🙄勝手な推測ではありますが、キリスト教やユダヤ教、イスラム教世界ではないということなのだろうか?



銀河英雄伝説という物語も禅譲ありましたな!



またひとつ勉強になりました!
ピックアップ人物伝 孟達と劉封



ひとつの判断がとんでもないことになってしまった2人の経緯を見てみましょう!
劉封


- 207年以前 子のいなかった劉備に養子として迎えられる。
- 212年益州攻略戦に孔明 張飛とともに参加。
随所に武功を挙げる。 - 219年 劉備は上庸に孟達を進軍させるも1人では心許ないと思い劉封を派遣。申耽を降伏させる。
- 同年に関羽からの援軍要請を拒否。その結果、曹仁の援軍徐晃らと孫権派遣の呂蒙の挟撃により関羽は囚われ処刑される。さらに孟達と対立。彼の軍楽隊を接収。
そして孟達は魏に出奔。徐晃らと劉邦を攻める。
劉封は敗れて上庸も失い、成都へ敗走する。
劉備は養子とはいえ、孟達を奔らせたこと、関羽への援軍を行わなかったことを責め、さらに孔明は劉封の剛勇さは制御できないとし、劉封を除くよう進言。
『三国志』の撰者陳寿の評では、「先主(劉備)に嫌疑をかけられる立場に追い詰められているにも拘らず、その対策を全く立てようとしなかった。その身の破滅は当然である」と大変手厳しいものとなっている。
劉封 wikiより



三国志11の能力値にあるように知力はなかったのかな?



知力もさることながら、この二人の相性がまるでないところへ関羽や魏との対応に迫られて、そのもろさが簡単に露呈ししまってますね。



二人の能力を見込んで上庸を守らせたんですが裏目にでましたね!



関羽に援軍を送っていれば、歴史は変わってたかな?



後に劉封が孟達を攻めるべく兵を出しているので関羽への援軍は可能だったでしょうけど。
孟達


孟達略歴
- 才能・弁舌に優れてたとある。
- 飢餓が起きたため法正とともに益州の劉璋の元に身を寄せる。
- 劉備入蜀時、法正とともに一軍を率いて出迎えの任にあたる。
- 劉備が益州を奪取した後は配下武将として漢中戦線で活躍。
- 上庸へ進撃、劉封ともども申耽を降伏させる。
樊城を包囲した関羽の援軍を拒否。
関羽が捕まり処刑させられ、劉備たちの恨みを買う。
その後魏に逃亡する。
寝返りとはいえ曹丕の側近に妬まれるくらい
孟達は曹丕にえらく気に入られる。
後、徐晃らと上庸を攻撃して劉封を敗走させる。
孟達は劉封に手紙を送る
「肉親さえ仇敵に変わるのですから、まして肉親でない者はどうでありましょうか。あなたは漢中王(劉備)に対して行きずりの人に過ぎません。漢中王は心中すでに決断を下しており、あなたに対して疑念を生じております。側近たちは漢中王に讒言を吹き込むでありましょう。身を棄てて東方へおいでになり、羅候を継承なさるならば、親に背いたことにはなりません。北面して君主(魏の君主)に仕え、それによって国の大綱を正されれば、旧知を棄てたことにはなりません。我が陛下(曹丕)は新たに禅譲を受けられ、何の邪心もなく賢人の到来を待っておいでであり、徳によって遠くの者をなつき従わせています。あなたはこの機会に早く良計を定められるがよろしいでしょう。『易』に『大人(至高の位をもつ人物)を見るに利あり』とあり、『詩経』に『自ら多福を求める』とあります。用いるべきです」
孟達 wikiより
しかし劉封は従わず、成都で劉備と孔明に死を賜る。
孟達は曹丕の信頼を得られたが、司馬懿らには信用されなかった。
曹丕が没し曹叡が後を継ぐと、孟達は不安になり呉に通じたといわれる。
その後孟達は反逆するがそれぞれの歴史書で差異が大きくなっている。



冒頭にもありましたが、才能・弁舌が優れてたというのは魏に奔ってもなんとかやれてたところにあるんでしょうね!
トピック 蜀漢皇帝の弔い合戦になぜ孔明は絡まなかったのか!?
諸葛孔明 法正
漫画を読んでいると、このどうにも私的な不毛な戦い、よく孔明は反対しきらなかったと感じるのですが、孔明は関羽に荊州を任せた責任も感じていたのではないでしょうか?と思わせるほど孔明はこの件に関して絡んでいません。
天下三分の計をうたった孔明ですが、劉備の入蜀以降、龐統の死から活躍はあったものの、その後の漢中での攻防戦などでは思いの外、活躍はありません。
もちろんこの間に蜀の内政面をやっていたりとあったとは思いますが、入蜀後の特に法正参加後から劉備の孔明の扱いが変わったようです。



劉備に強い意見が言えなくなっていた?



そのヒントとなる記載をwikiから!
諸葛亮と法正は性向が異なっていたが(『蜀書』法正伝)、公の立場に立って互いに認め合っていた。また、諸葛亮は常に法正の智術を高く買っていたため、法正の蜀郡太守としての不公正な振る舞いも容認した[5]
法正 wikiより
章武2年(222年)、夷陵の戦いで劉備が大敗した際、諸葛亮は「もし法孝直が生きていれば、陛下(劉備)の東征を止められたはずだ。仮に止められなくとも、今回のような大敗はしなかったろうに」[8]と嘆いている。
法正 wikiより
法正がいればという嘆きは蜀漢において孔明より法正の方が身分も権限も上になっている点が挙げられる。
法正は尚書令で孔明はこのとき214年益州平定以来変わらずの軍師将軍・署左将軍府事。孔明が丞相になるのは法正亡き後の蜀漢建国から。



孔明が丞相となってはいましたが、主戦論者の張飛のほうが蜀漢帝国では身分が上ということもあるのかな?



法正の死は横山三国志で描かれていないのですが、これは見過ごしてはいけないポイントになるのではないでしょうか?


諸葛孔明 法正
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