横山光輝 三国志 40 漢中王劉備
はじめに

本の内容については漫画を読めばいいと思うので、ここでの記事は補足となる、人物や物事を取り上げて漫画を少しでも楽しく読めるようにするのが本記事の目的とします!
よろしくお願いします!



よろしくお願いします!



前回の記事はこちら!


あらすじ


魏軍の劣勢は変わらずだったが、曹彰の援軍のおかげで持ち堪えてる矢先、楊修が曹操に打首を命ぜられる。
そして曹操の前歯2本を奪い、さらに蜀軍は漢中を手に入れる。



くわしくはマンガを読んでね!
そしてこの地を得た劉備は孔明の説得により漢中王になる。
決心した劉備の横で張飛が



うほっ!
劉備が漢中王を名乗り、いよいよ三国の争いが激化!赤壁後の劉備軍の台頭に危機感を共有した魏と呉は密かに通じ、
荊州の地で激しい戦がはじまる。



次なる主役はわたしだな!


キーワード 鶏肋





【鶏肋】とは?
大して役に立たないが、捨てるには惜しいもの
漢中にて劉備軍に苦戦していた曹操が食事中に無意識に発した言葉。
これを聞いた楊修はこの言葉を素早く解釈して撤退の準備をさせる。
「鶏肋(鶏のあばら骨)は捨てるには惜しいが、食べても腹の足しになるほどの肉はついていない。すなわち、漢中郡は惜しいが今が撤退の潮時とお考えである」
曹操は勝手に撤退準備を開始した楊修にたいして軍規を乱したとし即座に処刑する。
この一件に限らず前々から楊修の言動は曹操の真意を見抜いており、曹操は楊修を危険視。また魏の後継者として曹丕ではなく、曹植を支持していたというのも曹操はよく思っていなかった。



才はあったが、その才を恐れられ、また魏の後継者問題に絡んでいたことは危ないポジションにいたことが伺えます!
三国志に関する故事ことわざについての記事はこちらになります!


ピックアップ人物伝 于禁


于禁は張遼・楽進・張郃・徐晃と並び曹操在世時もっとも功績があった将軍。
于禁がどれだけ恐れられていたかの話
于禁の人柄は剛毅で威厳があった。賊の財物を手に入れても懐に収めず、賞賜を与えるなど清廉でもあったが、法律を重視して部下を統率するなど法律を絶対視する事があり、あまり兵士・民衆の人望を得る事ができなかった。曹操は朱霊の軍勢を取り上げる時に、威名が轟いていた于禁に数十騎を率いさせて指令書を届けさせた。朱霊やその部将たちは動く事ができず、朱霊らは于禁の部下という立場に降格されることになったが、皆震えて服従した。このように于禁は人々から一目置かれていた。
于禁 Wikiより
左将軍の于禁は右将軍の楽進と並び、魏の将軍としては筆頭の地位にあった。
こう言った面は演義では見ることができないので、于禁が曹操に信頼されトップの将軍だったというのは興味深い。
逆に演義では曹操のよき手先として悪役な描かれ方になり、褒められた将という描かれ方はしていない。
そして最後に不幸が訪れる。
樊城の戦いで洪水にあい関羽に降伏したことから晩節を汚す結果となった。
北宋の司馬光は『資治通鑑』で
「于禁は数万の将兵を率いていた。敗れても死ぬことができずに生きて降伏し、また帰って来た。文帝(曹丕)はこれ(于禁)を罷免することも、殺すこともできた。それなのに陵屋に(降服した有様を)描かせてこれを辱めた。君主のやることではない」
と曹丕を批判
曹操軍一の将軍は降伏により、生きながら全ての名誉を失い、後世の小説にまで手厚さのない描かれ方をしている。


トピック 曹操の子供たち


曹操の子はWikiから見ると総勢32人!うち娘は7人となる。



え!?奥さんは何人いたのですか?!
『三国志』武文世王公伝の兄弟順による簡単な表
名前 | wikiからの略歴 |
---|---|
1 曹昂(そうこう) | 生母の劉夫人が早くに亡くなったため、劉夫人の次に曹操の正室となった丁夫人に育てられた。 曹昂は張繡軍の攻撃を受け、典韋らとともに戦死した。 死を知った丁氏(丁夫人)はこれを恨み、自ら離別して実家に戻った。 |
2 曹鑠(そうしゃく) | 早世 |
3 曹丕(そうひ) | 魏の初代皇帝。父の曹操の勢力を受け継ぎ、後漢の献帝から禅譲を受けて王朝を開いた。著書に『典論』がある。 |
4 曹彰(そうしょう) | 弓術と馬術に優れ、人並み外れた腕力を持ち、猛獣と格闘することができ、険阻な場所でも平気だった。曹操の征伐に付き従い、激しい気性を示した。 兄曹丕が魏の皇帝となると、その優れた武勇を警戒され冷遇されるようになった。 |
5 曹植(そうしょく) | 唐の李白・杜甫以前における中国を代表する文学者として、「詩聖」の評価を受けた。才高八斗(八斗の才)・七歩の才の語源。建安文学の三曹の一人。 |
6 曹熊(そうのう) | 同母兄は曹丕・曹彰・曹植。 小説『三国志演義』では、曹操の死後、曹丕から葬儀に参列しなかったことを咎められたため、罪を恐れて自殺する。 |
7 曹沖(そうちゅう) | 幼少の頃から学問好き 一時は嫡子曹丕よりも、曹沖に後継させようと考えていたほど しかし曹沖はわずか13歳で早世してしまう。 逸話も多々ある。 |
8 曹據(そうきょ) | 司馬師は曹據の従孫にあたる曹芳(斉王)を廃位した後、後継者の候補として曹據を推挙したが、曹叡の系統が断絶することを憂えた郭太后に拒絶されたため、曹丕の孫である曹髦(高貴郷公)を後継とした(「三少帝紀」が引く『魏略』)。 |
9 曹宇(そうう) | 妻は張魯の娘(張魯伝)。 曹奐(元帝)が即位した後、上表して冬至を祝した。しかしその際に「臣」と称したため、曹奐は直ちに詔勅を下し先例を調査した上で、実父である曹宇(燕王)のために、特別待遇を許す措置を採った(「三少帝紀」)。 |
10 曹林(そうりん) | 生母は杜氏(曹操の側室)。 |
11 曹袞(そうこん) | 少年時代から学問好き。 才能は曹植に及ばなかったものの、よく張り合うほどだったといわれる。 また性格は穏やか質朴であり、周囲の者が爵位の昇進を祝ったりその善行を上奏すると、かえって驚き恐れたという。 また、自分の妻や愛妾たちにも機(はた)を織らせ、倹約に励んだ。 |
12 曹玹(そうけん) | 小説『三国志演義』には登場していない。 |
13 曹峻(そうしゅん) | 小説『三国志演義』には登場しない。 |
14 曹矩(そうく) | 早世 |
15 曹幹(そうかん) | 234年、曹幹は禁令を犯し賓客と交際した。 母の陳姫は曹操の妾。 彼が5歳の時、曹操の病が重くなった。曹操は涙を流しながら、曹幹の異母兄の曹丕に「この子は5歳で両親を失おうとしている。よろしく頼む」と言い残した。 曹操が死去すると曹丕(文帝)は曹幹を傍に置き、他の弟たちよりも厚遇したという。 また曹幹が曹丕の事を父と呼んだため、曹丕は「私はお前の兄だ」と言って不憫に思い涙を流した。因みに曹丕と曹幹の年齢の差は数えで30もあった。 |
16 曹上(そうじょう) | 早世 |
17 曹彪(そうひょう) | 嘉平元年(249年)、王淩は外甥の令狐愚に唆され、司馬懿の傀儡となった曹芳(斉王)に代えて曹彪を擁立するクーデターを企てた。曹彪もこの話に乗った。 しかし嘉平3年(251年)、この計画を察知した司馬懿によってクーデターを阻止されたため、曹彪は勅命により自害を命じられ、服毒自殺した。 |
18 曹勤(そうきん) | 早世 |
19 曹乗(そうじょう) | 早世 |
20 曹整(そうけい) | 袁譚(袁紹の長男)と講和した際、袁譚の娘を曹整の妻に迎えた。 翌建安9年(204年)、袁譚が約束違反を起こしたとして、曹操は曹整と袁譚の娘を離縁させ、袁譚の娘を袁譚の元に送り返して講和を破棄した。 |
21 曹京(そうけい) | 早世 |
22 曹均(そうきん) | 叔父の薊恭公曹彬の爵位を継ぎ、薊公となった。 |
23 曹棘(そうきょく) | 早世 |
24 曹徽(そうき) | 属官に寿張県の役人を鞭打たせていたことが問題となり、所管の役人に上奏された。 1県500戸が削られることになったが、同年の内に元通りとされた。 |
25 曹茂(そうぼう) | 曹茂の性格は傲慢で何度か人に逆らったため、曹操には愛されていなかった。 兄弟のうち一人だけ王になれなかった。 |
コーエーテクモゲームス 三國志11 で確認できる曹操の子!
悲運の長男 曹昂


在位7年の魏初代皇帝


兄に武勇を警戒され冷遇される


唐の李白・杜甫以前における中国を代表する文学者


演義の物語に利用された!?


早世した曹操の真の後継者!?


魏最後の皇帝の父


この子宝の数!横山三国志では見られない、曹操の新たな一面が見えた気になりました!





曹沖が気になります!



演義には登場しませんが、興味深いですね!


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