横山光輝 三国志 31 馬超の逆襲
はじめに

本の内容については漫画を読めばいいと思うので、ここでの記事は補足となる、人物や物事を取り上げて漫画を少しでも楽しく読めるようにするのが本記事の目的とします!
よろしくお願いします!



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前回の記事はこちら!


あらすじ


復讐に燃えたぎる馬超は韓遂との同盟を強固にし馬岱、龐徳とともに長安を攻め取る。
この報を聞いた曹操は曹洪と徐晃に潼関での守備を命じ荊州攻略のための大軍を曹仁に命じ潼関へ向かわせる。
長安攻略でもそうだがここまでの作戦は龐徳が計を用いて成功している。
そしてここでも曹洪を怒らせ出陣させる策を用いて勝利する。
曹操と馬超の戦いがはじまる。



度々起こる漢民族王朝と周辺地域との抗争!



馬超はそのはざまにおいて活躍したイケメン!


キーワード 正史と演義を結んだ裴松之


横山光輝「三国志」の記事を書いていく過程で史実との比較が面白くここまでやってきました。
では史実とは?
となりますが、ここでは正史になります。
そもそも正史とは誰が編纂したのか?



演義も構成、人物が洗練された素晴らしい物語じゃよ!
陳寿
司馬炎(武帝)にその才能を買われて、益州の地方史である『益部耆旧伝』・『益部耆旧雑記』や、蜀漢の諸葛亮の文書集『諸葛亮集』を編纂し、張華・杜預・荀勗に高く評価された。この他、やはり高く評価されたという『古国志』を著した。これらの実績を踏まえ『三国志』を編纂すると、張華は「『晋書』はこの本の後に続けるべきであろうな」と称賛した。
陳寿wikiより
しかしながら晋の政治中枢にいたと思われる陳寿、
人間関係はさまざまで嫉妬などで陥れようとするもの、いいように描かれないことからの妬みなどがある中での編纂
そして彼が蜀出身ということなど、編纂に偏りがあるのを挙げられる。
裴 松之
裴 松之(はい しょうし、372年 – 451年)は、中国の東晋末・南朝宋初の政治家・歴史家。字は世期。本貫は河東郡聞喜県(現在の山西省運城市聞喜県)。祖父は裴昧。父は裴珪。陳寿の『三国志』の「注」を付した人物として知られる。自身の伝は『宋書』・『南史』二史にある。また、魏に仕えた裴潜の弟の裴徽の六世の孫にあたるという。子の裴駰は『史記集解』の撰者である。曾孫(裴駰の孫)には裴子野がいる。
裴松之wikiより
この裴松之という人物は実によく三国志に注をあたえ、のちの三国志演義の誕生へと導く形となっている。
追記した史料の出典を明記しているため、三国志の同時代やその少し後の時代にどのような史料があったか、内容も含めて知ることができるし、史料著者の立場や時代によって、どのように説や主張に差異があるかを知ることもできる。当然ながら、同じ事件であっても魏側の記録と蜀漢、あるいは呉側の記録では基調が明らかに異なっている。さらに、同時代史料と、魏の次代である西晋、さらにその後である東晋に成立した史料とでは、事件に対する受け止め方が異なるため基調が異なっている。そうした基調の変化に対する比較検討の材料を、三国志の一部を占める裴注として記録に残したことで史料価値を高めている。
裴松之wikiより
ともかくも、三国志正史といえば、陳寿というのは有名だが、裴松之がこの正史と演義を結んでるのが興味深い。



裴松之か!覚えておこう!( ..)φメモメモ


ピックアップ人物伝 馬超


蜀漢の五虎将軍となる馬超である。
全身を鎧に身を包み、趙雲ともどもかっこいいイケメン部門の武将。



素敵!
名前を聞いただけでもビビっちゃう部族がいるんでしょ?!
横山三国志及び、三国志演義においては父や弟を曹操に殺され弔い合戦を行い、韓遂と協力して勇ましい活躍をしたが、賈詡の離間の策にはまり、惜しくも敗れ!張魯の元へ身を寄せる内容だが、正史の方を見ると多分に複雑な内容となり整理が難しい。
また、横山三国志においてこの一連の活躍はあるものの前後の活躍があまりみることができない。
わかりやすく馬超をまとめてみる。
威光
まず馬超の威光は羌族との混血ということもあり、漢王朝の影響を受けない民族から信望を受けている。
父 馬騰 vs 韓遂
義兄弟であるが、敵対関係になり妻子を殺される。
馬超も韓遂の部下に殺されそうになる。
曹操の命令で鍾繇が仲裁に入る。
202年 鍾繇の要請を受けて、平陽で郭援・高幹を討伐する。
208年 ふたたび馬騰と韓遂は不仲となり、馬騰は入朝する。
馬超は涼州での父馬騰の軍勢を引き継ぐ。
馬超・韓遂連合軍 vs 曹操軍
211年 曹操は漢中を攻めるべく鍾繇、夏侯淵らに命じる。
この動きに馬超は涼州をねらっているのではと疑心暗鬼となり、ここからふたたび韓遂と手を組み、曹操と戦うこととなる。
「自分は父を棄てて韓遂を父とするので、韓遂も子を棄てて自分を子と思って欲しい」と語ったという。閻行は参加を諌めたものの、韓遂は「((涼州)諸将は量らずとも意を同じくしている。これは天命である」と答え叛旗に同調した(『三国志』魏志「張既伝」に引く『魏略』)。
馬超wikiより
曹操が馬騰や弟たちを殺したことによる復讐からの戦いではなく、演義と袂を分けている。
しかし戦いの内容はおおまかにはいっしょで、最終的には賈詡のお家芸とも言える謀略、離間の計によって、馬超・韓遂連合軍は敗北する。
この馬超の反乱において、都にいた馬騰とその一族200人余りが処刑される。
そして馬超はふたたび兵を起こす。しかし曹操に降伏していた楊阜、姜敍、趙昂らが馬超に対するが、妻や子供を巻き添えにした親族血みどろの戦いとなり、こじれるだけこじれ、馬超は漢中の張魯を頼ることになる。
この後、馬超と張飛が一騎討ちをしたりと劉備軍と交戦したというのはないが、馬超の名を借り劉璋を降伏させたりというのは正史も同じようだ。
トピック 正史と演義の違う西涼の情勢 異民族との関係


今回ピックアップ人物伝で馬超を見てきたが、ここで思うのが、一族の争いである。29巻で取り上げた政略結婚でもそうだが、一族の繁栄が第一として争っている印象。


この涼州における馬超の勇名はその中でも桁が外れているように感ずる。
そもそも父の馬騰が都に捕らわれているのに涼州を守るべく、曹操と戦うというのは、父や弟を捨ててでも一族を守る意識が強かったからなのではないか?
国の意識よりも族の意識といえばいいのか?
13世紀にユーラシアに領域を拡大したモンゴル帝国は、正式な国号を「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」というが、モンゴル語で「国」を意味する「ウルス」の原義は「人の集まり」や「人の集団」である。つまり、モンゴル帝国は、チンギス・ハンの一族を中心とした様々な部族の連合であった。モンゴル帝国では、部族の同盟にあたって婚姻が重視され、どこの部族に嫁をだすか、どこの部族から嫁をもらうかで、お互いに結びついていた。
政略結婚wikiより
この意識がすでに涼州における馬超たちに染み込んでいるのがうかがえる。
ちなみにさらに
後漢後期、羌族がたびたび西方で後漢に反逆した為、後漢は西域の支配を維持できなくなった。180年代後半、雍州・涼州で、韓遂・辺章・王国・馬騰らが羌族や氐族とともに後漢に反逆し、後漢の皇甫嵩・董卓・張温らと激闘を繰り広げた(涼州の乱)。
三国時代wikiより
このことから馬騰・韓遂らは異民族よりだったこともうかがえる。


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